わたしの鼓動
Feb/2002
望む世界に・・・
最近、“小学校のなかに飛び込んで、子供たちとの関わりを深めていく。どうしても伝えたいことを伝え、体験を共有していく。あるいは、たまたま偶然のように子供との関わりの中へと入っていく”人達の話を、とてもとてもたくさん、身近で聞く。
- 父母面談で小学校へいった1年生の女の子のお母さん。たまたま通りかかった廊下の6年生のクラスから声がかかって、ミシンの使い方や家庭科を教える手伝いを継続的にしている。
- 不登校傾向の自分の子供のクラスに毎日のように通っている男性の先輩。(その子は先輩がクラスの中にいれば安心して登校する)。他の子供たちがたくさん声をかけてきて、いつのまにか先輩自身の居場所ができていた。年齢も立場も違う“異分子”のような人のはずなのに・・・いとも簡単に?子供たちは受け入れちゃうものでも、あるらしい。
- 屋外のネイチャーゲームを教えている、という独身の若い“お姉さん”(子供たちと食べる給食費300円。自前だそうです(^^ゞ)。子供館で工作を教えている“お兄さん”。
- 近隣の小学校の校長や先生方に全くなんのコネもなく飛び込みで働きかけ、海外でとりためた写真をもとにストリートチルドレンの現状を子供たちにボランティアで紹介している女性。
- 最近になって小学校の先生になってチームティーチングをしている子育て中の同級生。
- NHK教育の“ようこそ先輩”という番組。
- 自然観察をやっぱりボランティアで教えている中高年の人達。
- 近所の中学校では“いつでもどなたでもクラス参観にきてください、感想をお寄せください”と学校を地域に公開している。オープンにしようと、とても努力している。
全然別の地域、別の方法。それぞれの人にふさわしい方法で、その人達それぞれが、伝えたいこと、やりたいことを子供たちに伝えている。交流している。子供をとおして“未来への?何かへの?扉”を開いている。開こうとしている。そうして、子供たちの好奇心も、自然に大人との関わり、を求めても、いる。(特に低学年、では。年齢高くなって高学年になると、一歩下がった冷めた目で見られることも多いらしいんだけど、ね)。
学校は閉鎖的、とか、学級崩壊、とか、荒れている、とか、いじめ、とか。切れる子供、切れる教師。わたしには子供はいないので、それはニュースや報道の中の少し離れた世界の出来事。
なのだけど・・・。
様々な人々の様々な活動の様子を聞くと・・・。学校はとかく固い、とかも聞くけど、“ちゃんと<固さ>や<硬直性>、溶けているじゃん”と思う。“希望あるじゃん”と思う。
基本的には、一人一人の個人的な、思い。とてもとても小さな“点”のような、動き。それがちゃんと何かにつながって、何かを変えてゆく。“思い”が“活動”へ、“行動”へと現われて、固さや硬直した仕組や心を溶かしてゆく。少しずつ、少しずつ。だんだんと大きな流れとなってゆく。
すごく素敵なこと。すばらしいこと。
そう、一人一人の気持ちを受け止める受け皿。なんだか世の中にちゃんと用意されていて、小さな流れが大きな流れとなるように。みんなが望む世界になるように、と。あたかもはじめから準備されているかのように。出来ている。動いている。
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たとえば、今という時代は大企業だって“いつ倒産するか”わからない。大企業に勤めていたって“いつリストラにあうか”わからない。“よらば大樹の影”という無防備な寄りかかりは、したくても、できない。それが、“今”だ。
わたしが就職するころ('70〜'80年代)は、戦後の混乱期からやっと順調な高度成長期を経てもうすべてにおいて(ううん、主に経済的なことと科学技術において)世界の最先端に追い付いた、アメリカに追い付いた。そして、そのアメリカさえも、日本式経営・技術に習っているという雰囲気の時代。バブルちょい前、の時代。“混乱”ではなく“秩序”が望まれて、ものすごい努力や偶然やいろんなことが重なって、“安定”と“秩序”が実現した時代。
私たちの親の世代が強烈に望んだ“安定”。(だってあの人達はどこかで子供のころや思春期のころの“命からがら”の混乱の記憶を引きずっている。その記憶がある限り、人はどうしても強烈に“安定”を求める。そうでなければ、“安心”できない)。
“それだけを(たとえば仕事だけを勉強だけを家のことだけを)していれば、幸せが手に入る”という単純な物語を意外な多数の人々が信じ生きようとしていた時代。あるいは実際に生きていた時代。
だけどね、そんな単純な物語からはみ出すもの、たくさん、ある。(世の中の動きとしても、きっとたくさんあったと思う。わたしはそのころ子供でわからなかったことも多いけど)。
“よらば大樹の影”物語を生きながら、生きようとしながら“そんな先が見えている人生は嫌だ”とも、強烈に思う人々もこれまた意外な多数いた、時代。
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だから・・・ちゃんと・・・。
人々の望む世界へと動いている。
“安定”が望まれた時代には“安定”が、与えられて・・・。
いい意味でも。そうでなくても。“意味”なんて超えて。
望む世界へと動いている。
“安定”の次には
退屈する暇なんてない、先の見えない世の中へと。
ちゃんと世界が動いている。
望む世界へと動いている。
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だから・・・
“ポジティブな意図を持ちなさい。持ち続けなさい。
望む世界になるのだから・・・。
意図を行動へとつなげなさい。
ほんの少しだとしても。それでも、いいから。
身近な、出来ること、でいいから。
行動が祈りとなって、届くところへ届くから。
魂の喜ぶことを、なさい”。
・・・わたしの中の何かが伝えている・・・。
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“「ごみ拾い」は人気のあるイベントなのよ”。
林のボランティアの先輩が教えてくれる。“バードウオッチングなんかよりね、ごみを拾いたい、という人、多いの。人が多く集まるの。普段ただ何となく生活しながらもごみは案外、目につくもの。だけど一人じゃ拾えない。ごみ拾いにはね、「いいことした〜い」と思っている「いい人=善意の人」が集まるの。ごみ拾いもね、イベントという形をとれば、「いいことしたい、いい人」たちの格好の受け皿になるのよ”。
すごーい。知らなかった・・・。
一人一人の思いの受け皿は・・・たとえば、こんなふうに・・・用意されて、いる・・・。
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そうして、ね・・・。
これだけ、“子供”に関する情報が“耳に残る”ということは・・・。わたしが“子供”に関心があるのかも・・・わたしが子供に関わりたいと、望んでいるの、かも・・・。(どこかで気づいていて、気づいていないこと、気がつきたくないこと、なのかも・・・)
とはいっても、ね・・・。
わたしには、大勢の子供の中に飛び込んでいくことに・・・あるいは子供と個人的に関わることに・・・まだ少し?抵抗がある。もうしばらく、もう少し、外から・・・眺めていたい、気分も、ある。
だから、わたしも・・・。
そんなわたしにちょうどいい受け皿を生きようと思う。
わたしが持っている関心や好奇心を大切にして。
地域や自然や林や畑。森。山や土や海や川をキーワードにして。身体と自然との関わり。身体を通しての自然や世界への働きかけ。身体が自然や世界から受け取るもの。少し昔には確実に残っていた生きる知恵・生きた知恵を大切にして。掘り起こして大切にしよう、としなければ、見失ってしまうような、今となっては“微か”にも感じられる、太古の昔から連なっている“知恵=生き方”の感触を大切にして。
わたしはわたしに出来ることを生きる。
あらゆる意味で今のわたしにふさわしい方法で。“子供”への関心を持ちながら、生きる。
それはきっと・・・未来へ関心を持つ生き方。
未来への責任をほんの少しだとしても、担う、生き方。
ゆっくりと大きな流れになることを期待しながら・・・祈りながら・・・今あるものと過去を大切にしながら・・・。
子供を象徴とする希望=未来を抱いて、生きる。
おお。かっこいいラストになった・・・(^^ゞ。
うーん。でも、実際や実態はカッコ悪い、です。
試行錯誤の、ごちゃごちゃで、迷惑かけていること、多いかもしれないのだけど<(_ _)>(^^ゞ。
みんなは何を“望み”ますか?
メールお待ちしています
angel@makoran.jp
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