Feb/2004
時に起こる、ちょっとした不思議。まあ、気のせい、かも知れないし、“錯覚”なんだろうけど。そう、たいしたことじゃ、ない。他の人から見たら、何の意味も、ない。だけど、印象的な、こと。私には、忘れられないこと。ちょっと不思議で、暖かい?こと。
ほんとに些細な人生の彩り。
それは、ごく自然におき、何の違和感も、不安な感じ、恐怖感、も、ない。かといって、特別の至福感、幸福感が、ある、ということでもない。
単なる日常の一コマに・・・連続した現実と共に、しっかりとした現実感があるにもかかわらず、ごく自然に、するりとはいってくる。
もう10年近く前に、一夏だけ、小さな畑をつくった。
ゼロから耕し、キュウリや茄子、モロヘイヤ、ネギ、夏野菜をいくつか作る。
全くのお遊び、なので、何の責任も、義務も、ない。だけど、8リットルもはいる、大型のじょうろを買って、マンションの3階から水を運ぶ。水を撒き、育てる。
どんなに都会でも、自然の営みは、ある。そんな小さな畑にも小動物が訪れる。
カエル、アヒル、鴨、モンシロチョウ。ときにはネズミも。蝶は、私が水を撒くのを待っていたかのように、畑を舞う。(それもおもい込み、なのでしょうけど(^_^ゞ)
人も、惹かれるものらしい。面識のない人々が、そんなに多くはないけれど時に声をかけてゆく。“一人でやっているんですか?”、“大変でしょう?”、“楽しみですね”、“キュウリは接ぎ木をしないとあまり成りませんよ”。直接のやり取り、ではなく、何かをとおした、コミュニケーション。畑、をとおした、コミュニケーション。
ある晴れた日。水まきが終わって、ぼーっと畑をながめていると・・・。
ちりん。ちりーん。
澄んだ鈴の音が聞こえる。
周囲には誰も、いない。
風さえ、吹いて、いない。
どこかの草むらに、誰かの置き忘れた鈴があったのかしら?
そう、きっと、そうなのだとも思うのだけど・・・。
まるで、空中に見えない鈴が急にあらわれて、鳴っているかのように。
ちりん。ちりーん。
何かが成就した。そんな感覚。
何が成就したかも、わからないのだけど。
そう、なぜ、自分が畑をしているかも、わからないのだけれど。
なぜか、夢中になれることだった。
自然に心を開く。
鈴の音に。土や、植物や、ごく隣に住んでいるのに気がつかなかった動物や昆虫に。
自然の営みに。ありのままに。
心を開く。
小さな女の子を連想されるような、鈴の音。
その畑から、たくさんのことを学び、夏が終わった。
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最近の山歩き。
時間がある時に急におもいたって連れもなく山(といってもいわゆる低山ハイキング)に行くので、一人歩き、のことが多い。
そういう時は、人の音、に敏感に、なる。
前から来る人。後ろから来る人。
体力のないおばさんである私は道を譲るように心づもりをする。
確かに?人影があり、人が歩く音がするのだけれど・・・しばらく待っても、誰も、こない。誰も、いない。
何度も何度も後ろを振り返ってしまう。
・・・比較的気にしいの私だとしても・・・こんなに頻繁に人の気配が気になることは、あまり・・・こんなことは、ないのだけれど・・・。
体力のないおばさんハイカー(私(^_^ゞ)は、何度も休む。
木々を見ながら。木々の一本一本、葉のひとはひとは、の描く模様、をながめながら。
休んでいると急に右の足元、ひざから下に暖かいものを感じる。まるでお日さまがあたっているみたいな。心地よい暖かさ。あるいは、猫?か、犬?か、小動物が・・・そばにいて温もりを伝えてくれているような・・・そんな暖かさ・・・。
“お日さま、あたってないんだけど、な・・・”
さらに山道を進む。
小さなお堂がある。
そこでもやはり、人の気配を感じる。
ちらっと見えた?感じた?のは・・・その時の私と同じ背格好、同じような服装の、人。
“あれ?”、“やっぱり人がいるの、かな?”
ううん。いない。の。
気にしいの、気のせい。寂しがり屋おばさんの、気のせい。
・・・かも、知れないのだけれど・・・。
その山は、天狗が住む、という伝説の山。
もしかしたら、ね、寂しがりやの見習い小天狗さんが、“気づいて”、“気づいて”。“遊んで”、“遊んで”。
とやってきていたのかも、知れない。足元にすり寄り、少しでもおどかさぬように、気づいてもらえるように、今見た人(私)と同じ格好の幻(あやかし)を見せてくれたのかも知れない。
ううん。・・・。そんなのは、ファンタジー好きの私の思い込み。
わかっている。そう、思い込み、だ。
そうして・・・その思い込みは・・・私を少し、あたためる。
私を少し、やさしくする。なごませる。ゆるませる。
そうして・・・思い込み、とばかりは割り切れない、何かが残る・・・。
歩くうちに、人の気配は消えていた。
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人生には・・・“やってられない!!”と思う時もある。
どうしても、受け入れられないこと、絶望、身も世もなく泣いてしまう・・・時も、ある。
絶望したように激しく泣いていると・・・
隣が突然暖かい。
金と銀の粉が舞い降りているように。
暖かさと光を感じる・・・。
言葉もなく、圧力?存在感?を感じるような、暖かさ・・・。
あえて、その暖かさをあえて言葉にすると・・・“ぼくがいるよ”・・・。
ううん。だれも、そこには、いない。
いない、とわかっていて、暖かい。
いない、とわかっていて、なぜか、明るい。
それは、ただ、一度だけ、のこと。
とつぜん、“人生も悪くないな”と、おもう。
絶望、なんていっても、きっと根は楽天家、なんだよ・・・ね。
・・・なんて・・・体験を話してみると、案外、似たような経験をしている人に出会う。
全然別の人生の背景。全然別の人生の局面。全然別の人生なのに・・・。
突然起こる、“聖なる”と、呼びたくなるような、体験。
“救い”と、いいたくなるような、体験。
・・・・・
だけど・・・たぶん、そういう体験自体を追い求めるのは、無意味、なんだよね。
一度会ったから、また、明日も、と、追い求めても・・・。
するり、と、抜けてしまう。
必要以上に意味付けしたり、使命感?を見出そうとしても・・・。
たぶん・・・徒労に終わる・・・んだ・・・。
もし、そういう体験に出会っても・・・ただ、感謝して、手放す。
人生の彩り、として。
奇跡、のような、救い、のような、暖かさに感謝して。
時にそういうことも、起こる・・・それが人生、と、感謝して・・・。
自分の身に起こったことに感謝して・・・
見守ってくれている何か。見守ってくれている存在。
目に見えなくても。
きっと、誰のそばにも、きっと、いる。
もし、そういう存在がいるならば・・・私のそばにもいるならば・・・
私を助けてくれた存在に・・・感謝する・・・。
生かされていることに・・・感謝する・・・。
“ありがとう”。
メールお待ちしています angel@makoran.jp