わたしの鼓動

Jan/2004 

心眼

  “心眼を鍛えよ”
何かが、いう。
  “心眼を鍛えよ”

言葉を知らない私は・・・“それってなに?”と思う。
 
  “心眼を鍛えよ”

  “座れ、座るのじゃ”

  “そうして、心眼を鍛えよ”

・・・・・・
なんだか、さっぱり、わからない。

ううん、たぶん・・・ほんとうは・・・わかっている。

ほんとうは・・・。
私の、“かたちのなさ”を。いっている。わかっている。

ついうっかり?単純に嫌われたくないため?に、へん!と思われたくないために。
人にあわせて、“無難”を生きる。

卑下したり、わからない振りをしたり・・・。
ついつい人にあわせてしまう。

“安易な分かりやすさ”を生きてしまう。

  “心眼を鍛えよ”

何かを見抜いても・・・それが、言葉にならない。
言葉になる時に歪んでしまう。歪めてしまう。ときには思っていること、わかっていることと、まるで正反対のことが口から、出る。

なんて、私は、弱いんだ。

“かたちをもたぬ”弱さ。

それは、“柔軟”とは、ちがう。卑怯な生き方、だ。
物理世界に住み、かたちを尊ぶ、かたちも尊ぶ、“人間”という“生きる”かたちを選んだからには。
自分という“かたち”を持たずに、人にあわせ続けるのは、それは、卑怯というもの、だ。
(・・・(^_^ゞ。中学生が言いそうな台詞・・・。齢40にして・・・(^_^ゞ)
(だけど・・・それだけ、私は自分から、ずれてたんだよ、ね・・・仕方が、ない・・・)

  “心眼を鍛えよ”
  “座れ、座るのじゃ”

何かを見抜いても・・・それで、人を責めては駄目だ、攻撃しては、駄目なんだ。
もう・・・そんなことは、したくない・・・。

  “心眼を鍛えよ”
  “座れ、座るのじゃ”

ただ、そっと、言葉を、置く。
自分にとって真実の言葉。
場にとって真実の言葉。
もしかしたら、相手の人にとっても、真実の言葉。

感情という色をつけず。

あってもなくてもいいけど、やっぱり、ある、ものとして。
ただ、そっと、言葉を、置く。

その言葉が、そのとおりだとしても、そのとおりでない、としても。
やっぱり、私の真実として。
ただ、そっと、言葉を、置く。

巻き込まれずに。
歪めることなく。
責めることなく。

ただ、そっと、言葉を、置く。

  “心眼を鍛えよ”
  “座れ、座るのじゃ”

今は・・・他に鍛え方がわからないので。
私は私の強さの培い方がわからないので。
揺らがぬ自分の培い方がわからないので。

合掌して、正座する、機会を持ってみる。

私が私の真実と共にいるために。


 






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