Jan/2005
印象に残っている小さい頃見たいくつかの映画。
そのうちの一つに「トッポ・ジージョ」というねずみさんが主人公になった映画がある。
えっと。もう忘れ去られたキャラクターだよね。肌色の皮膚?毛色?をした、耳の大きな、マペット?タイプのねずみ。シマシマのシャツを着ている。もう、40年前のキャラクター。
確か、トッポ・ジージョは都会派のオシャレなねずみ。そのねずみさんが赤い風船に恋をする。風船さんは最初全然ねずみを相手にしない。だって、いくらすかしてたって、所詮ねずみ。空を飛ぶこともできないねずみ。でも、いろいろあって、二人で都会の中を、にげまわ?る。下水道を通って、泥でよごれた風船さんをジージョが洗ってあげる。だんだん、こころ?(風船にこころはあるのか?)が通いあうようになったところで、突然平和がやぶられ、戦争が始まる。都会の中を軍隊が行進する。せっかくずっと一緒にいた、風船さんは軍靴に踏まれてぺしゃんこになってしまう。愛するものを助けられなかったジージョ。それでも、ジージョは明るく歌を歌って・・・やっぱり、風船さんを水道で洗ってあげる。それはもう、風船さんの抜け殻、ただのゴムの皮なのだけど・・・。
泣けるなあ。なぜ泣けるかは、分からないけど。多分、私にとっては、セカチューよりずっと泣ける、映画だ。
恋人の抜け殻から逃げずに、笑って洗濯できる強さに、泣ける。
愛している人を笑顔で送り出せる強さに、泣ける。
悲しくないわけないのに、そうやって、歌を歌って、次の旅に、旅立てる強さに、泣ける。
だけど私はもう・・・その時には、声を上げては泣けなかった。
押し殺して、泣いた。涙が止まらなかった。
あれは、小学校1年生?
そんな時には、もう泣けなくなってたんだなぁ。
母がいう。
“まあ、ないているの?(ばかみたい)”。
括弧の中の声が聞こえてしまう。
声を上げて泣いたら、いうだろう。
“もう、小学生なのに(はずかしい、みっともない)”
自分は、“戦争は恐いのよ、してはいけないの”と、戦争体験者?らしくいうくせに、
泣いている私には、“あれは作ったお話なのだから”。
どうしてそんなこというの?
関係ない。
泣けるの、泣けるの。
泣いたっていいじゃない!!!
泣いている私に、なんていったら、いいのかな?
・・・何もいう必要、ない。
今、リアルに泣けているわけだから。
ここでとめたら、涙がたまるだけだ。
未完の思いがたまるだけだ。
生きづらさがたまるだけだ。
“感じるこころをとめてはいけない”
“感じるこころをとめてはいけない”
“感じるこころをとめてはいけない”
何かが叫ぶ。
“感じてていいんじゃん”
“感じてていいんじゃん”
“感じてていいんじゃん”
“感じてていいんじゃん”
叫び続ける。
“感じて泣いたら、みっともない、社会の中でやっていけない”
誰かがいう。母がいう。父がいう。
“そんなの、嘘だ、嘘だ、嘘ばっかり”
“感じて泣けるから、つながれるのに”
“感じるこころを閉じ込めたら、不安だらけだ”
“生きている気がしないのに”
“いつもいつも、恨みがたまる”
“いつもいつもくたびれちゃう”
“自分でいいのか、自信がない”
“感じるこころを閉じ込めておくと”
“切れる自分が現れる”
“思いもかけないところで、思いもかけない何かに、あたらずにいられない”
“切れる自分に嫌気がさす”
“切れる自分を閉じ込める”
“感じるこことを閉じ込めたら、結局人とは関われない”
“そうやって、自分達の都合で私を切り刻んで”
“ずっとずっと、悲しい檻に閉じ込められている”
戦争を体験しても、ろくに泣けなかった泣くことが許されなかった母の子供心が、私をなじる。
結局そういうことだったのだろう。
そういう悲しい連鎖、なのだろう。
人が多い場所にいると、どうしても相手の都合に配慮して何かを押し殺す場面も時には必要なのかもしれない。
だから、人はどうしても・・・社会性と同時に、一人も必要、だ。
おもいっきり、泣ける、一人。あるいは、近しい人との個人的な空間。
それだって・・・最初は親に守ってもらわないと。
そばにいてもらって、思いっきり泣いていいという温かさに包まれた許可がないと・・・。
私は、一人で凝り固めていた。
そうして、母の正体を知り、離れた(離れつつある)今、何かをやっとゆるませて・・・
信頼を取り戻す。自分への。人への。社会への信頼・・・。
自分が自分でいて、人に受け入れられていること。
・・・やっと取り戻す・・・。
自分の責任の上にたつことができる。
“感じるこころ”を取り戻している。
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