Jun/2005
友人にチャネルしてもらう。
私についている存在は・・・よく分からない、と彼は、いう。
説明できる言葉がない、ということだった。
私はどちらかといえば、(エネルギーの)場であって、来てくださる人に合わせて、その人にふさわしい存在とつながるタイプ、なのだそうだ。
自分のいる物理的な場を浄化し居心地よく整えたり、自分自身の心の場(精神、感情、感覚)をクリアに保っておくことも・・・上手なのだそうだ。
ふーん。知らなかった。そうなのか。
(ありがとう、教えてくれて)
彼は(というか、彼がつながっている存在は)
“あなたは、自由意志というものをよく知っています。マスターしています”
“だから、セッションをしているのです”
“自由意志の使い方、大切さ、使う許可を自分におろすことを・・・”
“自然に人にも、セッションをとおして伝えています”
(へー。そうなんだ。そういえば、私は自由気ままが大好き!だ)
(ってちょっと違う!?カナ(^_^ゞ)
“一方で創造というものに極端に自信が、ない”
(うわー、その通り!)
“こうしている間にも・・・あなたは神の創造を生きています”
“あなたが創り出しているのです”
“全ての現実を”
“自由意志を使ってあなたが真に望むものを創造します”
“神の創造を生きなさい”
言葉そのものは・・・よく聞くタイプの・・・言葉なのだけど・・・。
あの時、あの場で聞くってことに・・・とても意味があったのでしょう。
(伝えてくださった方、本当にありがとう!)
誰もが、神の創造を生きている。
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チャネルって、場が整うこと、でもあるんだね。
チャネルの場にいるだけで・・・それこそ、“神の創造”を体感できる・・・。
(だから、もしかしたら・・・安易にチャネルにはまっちゃう人・・・いるのかもしれない、とも感じた・・・)
(自ら動くこと、見いだすこと、整えること、生きることと・・・混同しちゃう・・・)
(もちろん、そういう体験が必要なことも、あります、時にすがりたい気持ちがあることも・・・そういう私だってある・・・)
そうして・・・この感じ、知っている、とも思う。
たしかに、セッションの最中、こうして、場を整えているのかもしれないな〜とも・・・確かに思う・・・。
でもね・・・なんか、それを一人でしている気がして・・・ずっとしていると・・・疲れちゃうこと・・・あったんだよね。
それは“人間であることの自信のなさ”・・・から・・・
“人間というもの、自分というものを知らない、よく分からない自信のなさ”から・・・
きている、という感触があって・・・
結局、自分に?何かに?流れにまかせて・・・ここ何年か、ずっと探究してきた気がする・・・。
(いえ、一生続くのかも・・・しれないのだけど・・・(^_^ゞ)
やっとほんの少し・・・何かが見つかりつつある・・・。
“神の創造を生きなさい”。
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既に与えられているものを分かち合う。
そんな言葉も浮かんでくるし・・・。
“人間であることの自信のなさ”に意識を傾けながら、生きていると・・・またもや、というか、やはり、というか・・・私の強さ・・・に行き当たる。
“私の強さは醜い、歓迎されない、怖がられる”に、行き当たる。
でも、もう・・・“強さ=渦巻くエネルギー”、外に出してもらいたがっているエネルギーに気付いてしまうと・・・これを無視することは、できない。それをないことにするのは、もうできない。
・・・どうしたらいいんだろう?・・・
“神の創造を生きなさい”。
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セラピーの勉強会では・・・
静かに心満たされる体験も、自分を知る実験?ワーク?の一環として・・・したりしている。
(これもすてきでしょ?)
心満たす言葉を聞くのもうれしいのだけど・・・心満たす言葉を伝えるのも・・・とても試みたされる。
静かに自然に微笑む友人・・・とともにいることで・・・心満足される。
そっか。幸せって・・・こんな風にさり気ないもの・・・なんだ・・・。
幸せって・・・強烈なものではなくって・・・
(そゆのもありかもしれないけれど)
ほのぼのしみじみじんわりなのかもしれないなあと・・・
実感できた体験・・・。
しあわせそうな人を見、しあわせそうな人といる幸せ。
しあわせって・・・こんなふうに循環するんだ・・・。
それは・・・形じゃ、ない。
“人”というかたちをとおしているし・・・“言葉”というかたちを・・・どうしてもとおしている・・・のだけれど・・・。
そこに形への尊重と、敬意?と尊敬は・・・もちろん払うのだけど・・・。
やっぱり形じゃ、ない。
形に執着しても・・・幸せは得られない。
絶対的な安心、は得られない。
このさり気ない幸せを・・・もっとたびたび感じることができれば・・・。
もっとたびたび分かち合うことができれば・・・。
人としても幸せの輪が・・・さらに広がって・・・ゆく・・・のでは?
何かを無視し、見ずにすませるのではなく、卑下するのでもなく、恥じるのでもなく、ただ静かに受け入れた上で・・・人とともにいる幸せを・・・感じて、生きる・・・。
こんな当たり前のことが・・・分からなかったんだ・・・。
“神の創造を生きなさい”
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形、といえば・・・
また、別の友人が私の夢、を見る。
夢の中に私が出てきたんだって。
夢は・・・その友人のもの。
出てきたっていう私だって、その友人の心の一部分。
だから・・・そのお話は、友人に対するメッセージだと思って聞くことが・・・“形”を尊重することになる。
・・・のだけど・・・私にとってもたくさんのメッセージを含んでいた。
夢の中で・・・私は、ある人から大きなケーキをいただくのだそうだ。
そうして・・・なぜだか・・・私は、そのケーキをぎゅうぎゅう壁に押し込むんですって。
“まこらん!?なにしてるの!?”
友人が聞くと・・・
“うん。壁にはめるの”
私は平然としていうのだそうだ。
“だってほら。壁に穴、開いているでしょ?ちょうどよく”
確かに壁にはケーキの形にまあるく穴が開いていて・・・ケーキはすっぽりはまってしまう。
私はさらにぎゅうぎゅう押し込む・・・。
なんのため?
友人の夢は、そこまでだったのだそうだけど・・・。
私はきっと・・・記念にして、自分で見て楽しむため、人に見せて楽しむために、ケーキを押し込んでいたんだと思う。
ケーキはね・・・大きなケーキはみんなと分かち合って、一緒に食べて味わってこそ・・・よりいっそうおいしいものなのに・・・
ケーキ自身の存在理由を全うし、みんなもケーキがあることで幸せな気分になる・・・。
そのケーキを“見せる”ために使い、“記念品”にする!?
何かへん。
“記念品”として記憶にとどめる!?
味わうのではなくて!?
味わって記憶にとどめることだってできるのに。
その上おいしくって、みんなで幸せになれるのに・・・。
何か、とんちんかん。
“形に執着し、とどめおく”私の生き方・・・。
なんか、ガハハ!!と、笑いたくなるような、バカバカしさ。
ガハハハッハハ!!
と、笑っいとばしたく、なる。
私は本当は、ケーキは分かち合いたいんだ。
分かち合うためにケーキが、ある。
“神の創造を生きなさい”
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もしかしたら、ね。
私の強さこそが・・・そのケーキなのかも知れない。
このエネルギーは分かち合われるためにこそ、あるのかも知れない。
ケーキを壁に押し込めて、記念品にして見ていても、しょうがない。
だれかに“見てもらっても”しょうがない。
それは、“醜く、歓迎されず、恐さを与え”てきたのかも知れない。
適切な使い方ではなかったのかも知れない。
ケーキ自身が壁に押し込められる恐怖を感じていたので・・・
みんなが怖がったのかも知れない。
でも・・・今までは、それが分からなかった・・・。
壁に押し込める方法しか・・・知らなかった・・・。
食べやすいように切り分けて・・・
“どうぞ”といって、振る舞うのでなければ。
フォークを添えて、差し出し、手渡すのでなければ。
誰より、私が幸せじゃ、ない・・・。
ケーキは・・・きられるのなんか、恐く、ない。
多分、それは、ケーキにとっては・・・とっても晴れがましい瞬間、なんだ・・・。
“神の創造を生きなさい”
そっか。
そういうこと、なんだ。
まずは・・・私が一方的に・・・エネルギーを発するのではなくって・・・。
それがどう受け止められるか、に意識を傾けてみよう。
どうしたら、ケーキを分かち合えるか、に。
メールお待ちしています angel@makoran.jp