Apr/2003
私の最大のトラウマは・・・多分3歳ごろのこと。弟が1歳になるかならないかのとき。弟のためのベビーベッドが(実質的には“私”のベビーベッドが)家にまだあった頃のこと。
弟が生まれた直後のことは、覚えていない。きっと、私は祖母の家に何日か預けられ、母が弟を抱いて、私を迎えにきた。父も一緒? わからない。弟を妊娠中の母のことも思い出せない。私は、新しい家族の誕生を不安な中で?不安定な中で過ごしていたのか?そう、なにも・・・覚えて、いない。私は弟が生まれることを、あまり歓迎していなかったのかもしれない。父と母に愛されている私の場所を誰かと分かち合う準備なんか、ちっともできていなかったのかもしれない。了見が狭く、覚悟のない、私。ううん、子供の多くは、そうだ。私の限ったことでは、ない。それでも・・・私は私なりに、弟を歓迎?していたかもしれない。小さく、あまり動かない、赤ん坊。あまり、音もたてない、存在=赤ん坊。ううん、きっと大声で泣いたりしたんだろうけど、泣いた対処は、母が、する。私は責任を負わず、何も出来ず、何もせず、無関心でいれば、いい。無関心が、最大の母への手助け。
わたしは典型的な、赤ちゃん返りをするタイプの子供だった。まず、コップで飲み物を飲まず、哺乳瓶を手放せなく、なった。“だって、コップだと、こぼしちゃいそうなんだもん。この方がおいしいんだもん”。何となく、さびしくなって、“ライナスの毛布”のようにいつもぼろぼろのタオル(“ピンクちゃん”と呼んでいた)を持っていた。かなり大きくなるまで、“ピンクちゃん”がないと眠れなかった(後に弟も弟用の“ピンクちゃん”を持つようになる)。(ああ、それからかなり大きくなるまで、私は抱き人形を抱いていた)。小児科医の父は、“子供にはままあること、無理に哺乳瓶を取り上げたり、タオルを取り上げてはよくない”。と知っていて・・・そのままにしておいてくれたけど・・・そのことで父や母に叱られたことはないけれど・・・恥ずかしいことだと、思い込まされることはなかったけれど・・・。今から思えば・・・本当は・・・抱きしめてほしかった。ただ黙って、ときどき。何でもない時でも。“ちゃんとそばにいるよ、君は愛しい存在だよ”と。わたしの中の寂しさに届くように。何度も何度も。抱きしめて、届けてほしかった・・・。とてつもなく、寂しがりで、ほしがりで、満たされない、わたし・・・。簡単なこと、なのに・・・。満たされなかった・・・。(父や母は“私流の心の慰め方”=“安心毛布”を認めてはくれたけれど・・・さらにその奥まで・・・寄り添ってくれることはなかった・・・。彼等ができる、最高最大の愛情を注いではくれたけれど・・・そのことにはとても感謝をしているけれど・・・わたしの心は満たされない/満たされなかった・・・)。
私は弟のベビーベッドがとてもとてもうらやましく、ねだって、私がそのベビーベッドに寝て、弟が布団で下に寝るようにしていた。もともと、赤ん坊のわたしが使っていたベビーベッド。ベビーベッドがくる前は、大きめの、バンビの模様のついた座布団に寝かされていたようなのだけど・・・。ベビーベッドの柵の木の枠がなんともいえず、かわいらしい丸みを帯びていて、大好きだった。“私のもの”と、勝手に思い込み、愛着があり、安心の場所、だった。普通の布団で寝る、“お姉ちゃん”でいるより、ベッドで寝る、“まさこちゃん”でいたかった・・・。(なんてわがままな子だ。なんてわがままが許されてきたんだ。そうして・・・やっぱり、どこか・・・満たされない)。
核家族の勤め人の子供の日常は、平和そのもの。南向きの団地の部屋。静かな公園。静かな芝生。そんな中で、時に響き渡る、子供の歓声。時に嬌声。金切り声。時に大勢のことものざわめき。遊ぶ音。遊ぶ、声。
戦争、を体験した父のとって、それから、母にとって・・・平和は何より尊い、こと。そうして、多分・・・なれない?、こと。
自分自身が40歳代になって初めて?わかる。
15年前、20年前は・・・本当に、ひと昔、程度のことであって・・・そんなに遠い記憶では、ない。印象の強い体験は、いつでも、よみがえってくる。何度も体験したことや雰囲気は・・・案外今の自分から近いところ、にある・・・。
父はなくなってしまい、もう、“父の戦争体験”を聞くことは、出来ない。
母の戦争体験は・・・“学徒動員”と“空襲”と“疎開”。当時は中学生ぐらいから上の年齢の子供達は、勉強なんて出来ず、もっぱら工場で働く。軍需工場。パラシュートを縫ったり。様々な加工をしたり。工場で働く人たちは、みんな兵隊となって、戦地で戦闘しているから。女性や子供達が働かざるを得ない。それは、ほんの少し前=60年前の日本の姿。ろくに補給路もなく、戦地に送られる兵隊。若者のみならず、中高年まで。兵隊=人間を消費する戦争。人間を消費することを大手(おおで)を振って良しとする、戦争。飢えと病いで苦しみ・・・時に共食いまがいのことまで?した、と伝えられる戦争を・・・この、日本が・・・していた・・・。兵隊が送られていった先の人々の悲劇。攻め入られ、占拠され、支配される苦しみ。それから消耗品として送られていった兵隊の削られる命、傷、痛み。残された人々の、悲しみ、それから、生への渇望。“命からがら”の生活・・・。
“戦争は絶対しちゃ駄目よ”。母の口癖。そんなお題目をいきなりいわれても・・・平和ぼけした日本にしかいないわたしには・・・ちっともピンと、こない。“しようと思えばなんでもできる”時代に育ったわたしには、いったいどういう意図からいわれているのか・・・わたしにはわからない。“文句いい”で、“けちつけー”の母が、また、何か、コントロールしようとしてるのか、ぐらいにしか、思えない。“ママ、そんなに戦争してほしくないならね・・・お題目ではなく、ママのことを話さなくては。自分自身のことを話さなくては。ママ自身の痛みを・・・。ママ自身が嫌だったことを・・・。ママが失ったものを・・・でないと、わたしたち、下の世代には伝わらないよ。切実に“戦争はやめよう”、となかなか思えないよ”。そう、そうして、逆に、聞く方は・・・その痛みを引き受ける覚悟でなければ・・・聞くことの出来ない、話し・・・。“ママは何をなくしたの?”
母は家を失った。“だけど・・・家をなくした人はいっぱいいるし・・・”。そう、母は自分の痛みを人と比べて、恥じている。“たいしたことは、ないのよ”。すぐ、人の話にそらそうとする。聞いた話、テレビで見た話、に・・・。馬鹿な・・・。比べても仕方ないのに。それは、わたしの言い分。少し客観的に見えるからこそ、いえること。母は、そうして、比べながら、言葉を飲み込む。“たいしたことない”と言い聞かせ、難局を乗り切ってきた、母。いいや、やっぱり、比べてはならないこと。だからこそ、母は“戦争は駄目”といっている。理不尽に家を失った悲しみが、母に“戦争は駄目”といわせている・・・。
母はさらに自分の痛みを恥じる。“わたしは子供だったから・・・。おばあちゃんは大変だったのよ”。あ〜も〜。大変さに、子供も大人も、ないはずなのに。“たいしたことない”そういって乗り切る、子供の母。“ママはそうやって、おばあちゃんに騙されている。騙され続けている。還暦になっても”。・・・わたしは母の痛みに寄り添えない。単なる、親子ゲンカモード。おはずかしい。そう、わたしにはまだ、母の痛みを引き受けきる覚悟、がない。おはずかしい現状。“あんたはだまっていなさい。わたしのいうことを聞いていればいいの”。母の口癖。それは、多分・・・祖母が母にいっていた、口癖。“子供が口出しするんじゃない、ちびのあんたは黙っていなさい”。母の思いを切り捨てる?聞いている余裕のない?祖母・・・。新しい家を手配し、食料の手配をし、子供の疎開先を手配する。そりゃ、祖母も大変だったでしょう。でも、ママは? 寂しくなかったの? 恐くなかったの?
母は次から次へと話題が変わる。その時も、何となくはぐらかされて?話が終わる。“ママとしゃべっていると、ママの話を聞いていると10ぐらいの人としゃべっている気になるよ”。核家族の暮らしの中でも、母は大家族で育った記憶が抜けていない。大家族でのおしゃべりのありようがそのまま残っている。少しでも、話を聞いてもらおう、少しでも、口を挟もう、あなたのことじゃなく、わたしのことを聞いて。私は居るんだから。私を尊重して。母は私の話をいつも途中からひったくる。ぐったり疲れる。次々に話題を変え、痛みにとどまれない母。痛みにとどまれない、わたし。
わたしが生まれる16年前に戦争が負け戦に終わった。
それはたぶん、意識はしていなくても・・・。ほんの少し、前、のこと。
待ち望んだ穏やかな安定した生活。
平和な午前。平和な午後。
母はしばしば修羅の顔を見せる。鬼の形相。怒鳴りまくる。緊迫感。
それが戦争と関係しているかどうかはわからない。
そうなんだけど・・・。
やっぱりあの、ゆとりのなさは・・・母が育ったゆとりのない時代、と関わりがある気がする。
どうしても、わたしには、そう感じられてしまう・・・。
(もちろん、戦争時代を過ごしても、ゆとりのある心持ちの人、そういう気持ちを変わらず持ち続ける人、たくさんいる。そうして・・・やっぱり環境や時代に・・・影響を受けることも・・・人間にとって自然なこと。事実。だからといって母がわたしにしたことを簡単に許せたり、はできないけれど・・・)
ま、戦争と関係していようがいまいが、時に鬼の形相をする人。それが、わたしの母って人なんでしょう。
とにかく・・・。
明るい日差しの静かな団地の午後。
平和な時間。ゆるりとすぎる、平和な時間。
小さな時のわたしが大好きな、まったりとした、そうして、何となく、閉じ込められた、世間の喧噪から隔離された、ここが世界の中心ではない(だからこそ、世界の中心である、ちょっと逆説的な場所)、平和な楽屋裏、そんな気分にもなる、団地の午後。
2歳?3歳?のわたしは、はしゃぎたかった。騒ぎ回りたかった。
そんな気分。母は慎重に、何かをしたかった。玄関で。何か薬品?を使っていたのかもしれない。殺虫剤。慎重に容器から移す。あるいは、機械オイルを小さな容器に移す。(そう、40年前は、スプレーってものが、ない。殺虫剤はポンプ式の容器に移して使う。機械オイルも。大きな瓶から、小さな容器に移して使う。今とは違った消費のありよう)。
子供のわたしには堪え難い、嫌な、におい。気持ち悪い、におい。そうして、決定的に、子供には出来ない、触れられない、さわれない、大人の、きけんな、具合の悪くなる、におい。
なんでわたしは、はしゃぎたかったんだろう?
わからない。
機械オイルではなくわたしを見て? だったのか。
具合の悪くなる匂い、にわたしなりになれようとしたのか?
ただ純粋に、何か興味のあるものが、あったのか。
わからない。
埋もれて、いる。
わたしのはしゃぎぶりに、切れてしまった、母は、わたしを追いかけまわす。母の慎重さを理解できない子供。もしかしたら、何かしら“子供のため”にその作業をしていた母。“子供に害がないよう”に慎重を期していた(もちろん自身のためにも)母。その思いを当(とう)の子供が邪魔する皮肉、矛盾。やり切れなさ。それが“子供というものだ”、“それが子育てだ”と分かってはいても・・・やっぱり、やり切れない。切れまくる。いったん切れたら、修羅の形相の、激怒。それはもう、母では、ない。理屈の通らない、何をいっても聞き入れない、激高する意識だけに凝り固まっている、母。逃げるしかない。命に関わる、と思う。ぶたれたり、たたかれたり。痛くなりたくない。母の本性だと思う。ああ、また出たか、と思う。わざとらしい優しい口振りの影に隠されている本性。全く信用ならない。死ぬかと思う。胸がつぶれる。
いや、わたしが大人であれば・・・そんなに恐怖を感じずにすんだかもしれない。
人は、小さく、生まれる。
大人と赤ん坊は約20倍の体重差。
そうして、数年間は10倍近い体重差が続く。
数倍の身長差。見上げる巨人。
能力も。適応力も。知識の量も。
社会の中での存在感も。格段に違う。
その巨人が、自分の頼る人が、大好きな人が、変貌する。豹変する。
訳の分からないものに。荒れ狂うものに。
身がすくむ、恐怖でしか、ない。
泣くことしかできない。泣いても何もならない。
すべてがなくなる恐怖。“ここにいたくない”と思う。
恐ろしくて、声もでないこと。身をかたくして、過ぎ去るのを待つしかない。
それなのに・・・
大人はすぐ、忘れてしまう。
それだけの差がある、ということを。
自分がどれだけの影響力を持っているか、ということを。
それだけ、わが子を恐ろしい目に遭わせている、ということを。
すっかりと、忘れて、いる。
最初は無力な存在として、生まれるから。
無力な存在として育てられ、環境に、運命に、一番身近な人のありように、翻弄される、から。
“子供のあんたは黙っていなさい”と、その力が尊重されることがなかったから。
大人になった今の自分の力がどれだけの影響力を持つか、分からない。
“あなたは大人になったんだよ、目の前に入るのはあなたの子供だよ”。
誰も告げる人は、いない。母をとめるものは、ない。
核家族の団地の、部屋。
私の、だいっ嫌いな、殺虫剤を持って、追いかけまわす、母。
泣き叫ぶわたし。
(あるいは、それは・・・殺虫剤は充填されていなかったのかもしれない。からのポンプだったのかも、しれない。それでも、十分いやなにおいのするポンプ。たとえ母にとっては冗談?の脅し?だったとしても・・・私にとっては命に関わること。本気で逃げまどうしか、出来なかった、こと)。
幼児の全力疾走。たかが知れている。それに狭い団地の部屋。
もうどこにも逃げるところが、ない。
それでも、逃げる。
逃げる。逃げる。逃げる。逃げる。
ベッドの中に逃げてゆく。あのベビーベッドに。小さな毛布。小さな布団をかぶって。
泣きじゃくるわたし。
うずくまる。
あっという間に追い付く母。
毛布の上から。あるいは、毛布をめくって。殺虫剤をかけまくる。
“ぎゃー。いやだ、やめて、やめて”。必死で泣き叫ぶ。
幼児の断末魔。
ううん。死ななかったから、断末魔じゃないんだけど。
だけど、断末魔。
わたしの大切な何かが死んでしまった瞬間。
大人への信頼が。世界への信頼が。
“私はこれでいいんだ”という自己肯定感。“話せば必ずわかりあえる”という他者への信頼。
大切なものが死んだ・・・瞬間。
“おまえがいやがるからやってるんだ!!”。
もう、理屈になっていない。殺虫剤をかけまくる狂った鬼女=母。ただ、自分の気分をはらしたいがために我が子に殺虫剤をかけまくる鬼女=母。
怯えて泣くしかない、私。
泣きじゃくり泣きじゃくり泣きじゃくり・・・
自分を自分から切り離して、時を凌ぐ。心臓がえぐり出されるような痛みをやりすごす。
だいすきな場所で起こった暴力。残酷な出来事。
団地の昼下がり。
平和なはずの、午後。
陽の光が静かに満ちる、場所。
今の今まで暮らしていた場所で、機関銃で一斉掃射される人々の痛み・・・。
比較は出来ない。
出来ないのだけれど・・・。
未だに私にとっては、殺虫剤はチクロムBのにおい。死のにおい。
そうして・・・私は、決意する。今生きる私が決意する。
私にとって一番私から遠いもの。鬼の形相の母とともにいることを。
鬼の形相の母と呼吸することを。
私を苦しめているもの、私を苦しめてきたものから、私を解き放つために。
私自身を理解するために。
世界を理解するために。
母を理解するために。
本当の意味での戦いを理解するために。
私自身を信頼し、世界と人を信頼するために。
何かを取り戻すために。
私を怯えさせ、緊張させ、引きつらせ、泣きじゃくらせる、母と静かに対峙する。
私が逃げまくっていたもの、と対峙する。
いつかは面と向かわなくてはいけなかったんだ。
それが、今、なんだ・・・。
40年もかかった。
40年かけなくては、とても面と向かえなかったんだ・・・。
私はゆっくり呼吸する。
その場にゆっくり、居続ける。
ああ、ただ、居る、在る、ということはこんなにもパワフルなことだったんだ・・・。
ただ、居る。ただ、呼吸する。ただ、在る・・・。
“もう怯えなくていいよ。もう逃げなくていいよ”と、子供の私に告げ、母と静かに対峙する。
鬼の形相の母。若い母。子育てに、家の切り盛りに。神経質になっている、母。
母が神経質になっていることを深刻には受け止めない、父。
口出ししないことが親切?任せる?ことだと思っている、父。
母が手に入れた“核家族”という宝物を。無事になんとか存続させたい、母。
お手本がなくても(母は祖父が雇っていた従業員も含めた大家族の中で育った)、誰がほめてくれなくても、自分は戦争の中で育ち、平和を味わうことがなかったとしても。“小さい頃は、戦争がない、という状態なんて想像が付かなかった”。その母が平和な中で子育て、する。
・・・我が子を殺虫剤で責め立てて・・・。
子供の私と母のあいだにいて・・・胸がつぶれそうになりながら、うつむいて、泣いている今の私・・・。
(今の私は、その時の母の年齢より・・・幾分、上だ。そう・・・
一言では言い表せない、時間の・・・ねじれ・・・)
やっと顔を上げて・・・静かに・・・涙を流しながら・・・呼吸する。
母の鬼の形相と・・・殺虫剤を呼吸する。
自分と相容れないもの、を呼吸する。
自分と相容れない、と思っていたものを呼吸する。
ただ静かに、呼吸する。
母の怒りを呼吸する。
顔を上げ。殺虫剤を吸い、母の怒りを吸い、ただ、何も考えずに、息を吐き出す。
ゆっくりと、息を吐き出す。
単なる穏やかさではない。単なる許しではない。単なる憐れみではない。
ううん。逆に、さらにもっと単純に。
息を吐き出す。
私の中の痛みが粉々に砕かれて、濃密になったもの。
ほんのちょっとずつしか、細かくなっていかないもの。
そうして、うんと細かくなって、もう痛みと呼べない何か。
が、吐く息とともに、母と幼い私の間に流れてゆく。
母へと。宇宙へと。帰ってゆく。
これは、私の幻想。
こんなことは起こらなかった。
起こらなかったんだけれども。
私は呼吸し続ける。
母と幼い私の間で。
殺虫剤を吸い込み、粉々に砕かれた痛みと悲しみをゆっくりと吐き出してゆく。
私はもう逃げない。
明るい午後の日差しの中でなにが起こったか。
私は決して忘れない。
私自身が納得するまで。
何度でも。何度でも。
呼吸し続ける。
“こんな悲しいことを日常茶飯事にするのが、人間なんだ”。
今も現実に。
あらゆる暴力で苦しんでいる人がいる。
私なんかよりずっと長く・・・
苦しんでいる人がいる。
殺虫剤を吸い込み、粉々に砕かれた痛みと悲しみをゆっくりと吐き出す。
粉々に砕かれた痛みと悲しみが、金と銀の粉に変わるまで。
粉々に砕かれた痛みと悲しみが、美しさに変わるまで。
殺虫剤を吸い込み、粉々に砕かれた痛みと悲しみをゆっくりと吐き出す。
こんなことは幻想だ。
現実には起こらなかったこと。
人間の私が、痛みと悲しみと苦しみを、美しさに変えられるかどうかなんて。
決してわからない。
私の力はおよばない。
そんなことはわかっている。
そうして・・・だけど・・・
私は呼吸し続ける。
その場にいた私を救うために。
今の私を救うために。
できれば、母をも救うために。
(ううん。やっぱり、それも、幻想、だ。
こんなことで救われたい、と母が思っているかどうかは、わからない。
だいたいが、こんな虐待の思い出なんか、母には、ない。
だから、こんなことがあったかどうかすら、わからない。
何の証拠も、ない。
ただ・・・
私の心には刻まれている。刻まれていて、消しようがない。
だから・・・。
これは、私の心にとっての、真実。
それ以上のものでも、それ以下のものでも、ない。
動かしがたく、重い、私の中の真実。
どうしても、どうしても、どうしても、私も、母も救いたい、という私の身勝手な?、思い)。
私は呼吸し続ける。
残酷な思い出が、少しでも変わっていくように。
私は呼吸し続ける。
私が望む結末は・・・
母が、ゆっくり気が付く、こと。
金と銀の美しい光の粉に包まれて。
母は、ふと、我に返る。
自分がなにをしていたか、気づく。
怯えて泣きじゃくる我が子に。
自分の力の影響力に。
自分がなにをしていたかに。
せいいっぱいのNoをこえて、自分がなにをしようとしていたかに。
自分がなにを殺そうとしていたかに。
(我が子を。我が子の一番柔らかい部分を殺そうとしていたことに)
・・・母はやっと、気づく・・・。
“ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい”。
母は私を抱きしめる。
“ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい”。
若い頃の母が決して言わなかった言葉。
“ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい”。
“許して、許して、許して”。
母は私の髪を撫でる、母は私のほほを撫でる。涙をふき、抱きしめ続ける。
私がかけがえのない子供だと。
私にわからせてくれる。
母が母を全うする。
私は暖かさに包まれる。
・・・・・・・・・・・・
ううん。母は、ただ・・・私を抱きしめる、だけだ。
泣きながら。
すすり泣いて。
母は私を思いのほか強く、抱きしめる。
震える私のその奥に。
何かが自然に届いて?いく?・・・。
私の泣きようと母の泣きようが、共鳴する。
ただ、泣きに泣いて・・・何かが、洗い流される? ううん、そんな言葉も、いらない・・・。
ただ、涙に共鳴する。
私の何かが開いてゆく。
私は母の頬を見る。
私は母の皮膚を見る。
私は母の涙を見る。
私のすぐ横を流れる、母の涙。
私がずーっと見たかったものだ。
私がずーっと見たかったものだ。
私がずーっと見たかったものだ。
母の涙。
私のすぐ横を流れる、液体。
色のついていない、誰のためでもない、ただ、流れる、涙。
私も母を抱きしめる。私も母にしがみつく。
私の何かが開いてゆく。
子育てにいっぱいいっぱいの母。
悲しいことのあった母。悔しいことのあった母。
助けを求めたくて、ずっとずっと言葉を飲み込んできた母。
母の思いが溶けてゆく。
共感されなかった母の思いが・・・。
ただ・・・
溶けてゆく・・・。
・・・・・・・・
これは起こらなかったこと。
実際には・・・
払いのけられてきた、私の、手。
・・・・・・
・・・・・・・・
これが何につながってゆくのかはわからない。
どんな意味があるのかも、分からない。
ただ、書かずにはいられない。
・・・・・・・・・
今は、母と幼い私とを・・・泣かせておいてあげようと、思う。
メールお待ちしています angel@makoran.jp