わたしの鼓動

Nov/2002 

目の体操

 何年か前から、何とか、視力がよくならないかな〜と思って・・・“目の体操”に取り組んで、いる。
 小学生のころから、眼鏡が手放せない私にとって・・・近視がよくなる、というのは、奇蹟、の象徴だ。私の身に、奇蹟が起ってもいい、という許可。私が奇蹟を引き寄せてもいい、という許可。奇蹟のある方向に向かって、一歩を踏み出してもいい、という許可。それらを実際に現わす行動が・・・“目の体操”だ。
 千里の道も一歩から。時間が一方向に流れる、物理世界に住むものとしては・・・奇蹟にだって、努力は欠かせない。
 目のピント調節は、何らかの形で筋肉が行っている、ので・・・。私の場合には、近視、に凝り固まった筋肉をほぐして、ゆるめて、血行をよくしてあげる必要、がある。それから、今まで使っていなかった筋肉を鍛えてあげる。それが、“目の体操”。ストレッチ。トレーニング。


 近視は、“将来に対する不安=遠くを見通したくない”という思いから、
 遠視は、“細かいことに、わずらわされたくない、関わりたくない”、
 老眼は、“(浮世のことに)ピントを合わせ、集中し、根を詰めたくない”という思いから、
起る、という説も、ある。(本当かどうかは、わからないけれど・・・)(もちろん、遺伝、とか、暗いところで本を読みすぎたから、とか、経年変化、老化現象、とか、いろいろな要素や説明の仕方があるのでしょうが・・・)

 私の場合には、上の“近視”の説明は・・・当たっているような気がする。思春期ちょい手前の小学校高学年。いったいどうやって世の中をわたっていくんだろう? 漠然とした、不安。 今までは親のゆうことを聞いていれば、何とかなったけど、学校の先生がいうような、いい子、でいれば、教室のなかでは何とかなったけど、どうも、それだけじゃ、何かがうまくいかない、何かが物足りない、何か、不安、何か、こわい。私には、“何か”、わかっていないもの、がある。見えていないことがある。じゃ、いっそ、見なくしちゃえ・・・。
 ・・・そんな、感じ。何か、思い当たる・・・そんな、感じ・・・。

 “目の体操”をすると、なみだがたくさん出てくる。ドライアイに傾いていた目に、涙で栄養や酸素がいきわたる。それから、きーん? つーん? と、目の奥?が痛く?なり、何だか薬くさくなり、急に、よく見えるようになる。周りがはっきり、見える。それが、数秒続くときもあれば、数分続くときも、ある。視力の回復は、そんなふうに、私の場合、まだら、に起る現象だ。よく見えたり、また見えなくなったりを繰り返す。今、見えたらいいな〜と思うときに見える、というより、不意によく見え、びっくりする。よく歩いていた通りでも、まったく違った景色に見える。もう、ただ単純に、美しい。景色って、こんなにきれいだったっけ? 単なる町中のいつもの景色、なのに。不意に訪れる、不思議なギフト。

 身体のストレッチを急にやると、痛い、よね。固い身体を急に伸ばそうとしても、ちっとも伸びない。筋肉を痛めちゃう。ちょっと、そんな感じ。あまりにも、“近視”に片寄っていた筋肉を伸ばすのは、至難の、わざ。伸ばすのが“痛い”ほど、近くだけを見ようとしていた、眼球の筋肉。(薬くさいにおいは眼球の筋肉にたまっていた老廃物!?かな・・・)。


 “もういいんだよ、そんなに怖がらなくても。もう終わったんだから”。
そんな言葉が浮かんでくる。
 “もういいんだよ? 遠くが見えたとしても。もう、安全なんだよ”。
 “ほら、世界は・・・こんなにきれいでしょう? あざやかでしょう?
 さまざまなものが、たくさんあるでしょう? 複雑で、充実している、緻密な、世界・・・”。
 “必ずしも、あなたが気にいるものばかりではないかもしれないけれど・・・”。
 “あなたが気にいるもの、きっと、ある。あなたを気にいるもの、きっとある”。
 “ゆっくり歩いていきましょうね”。
 “あなたが、こわい、と思わなくてすむ、速度で。安心を感じられる速度で。
 あなたのペースで。休みながら、ね”。
そう思うと、なみだが出てくる。生あくび?とともに。なにかがゆるむ、なみだ。私の中で、たまっていた、なみだ。

浮かんできた言葉。きっと私から、私へのプレゼントの言葉。ゆるんでうれしい言葉。
そう、そのくせ、私は、あまのじゃくにも、
“そんなのやだ。びゅんびゅんのスピードで走ってやるぅ。バイク(みたいなスピード感のあるもの)でかっ飛ばしてやるぅ”。と、バイクになんか乗れもしないのに、思う。免許もないのに。まったくもって、お子ちゃまなみの反抗心(^^ゞ。コントロールの効かない手足をばたばたさせて、私を安心させるものを困らせる。あまのじゃく・・・。

 いったい何が、“もう終わった”んだろう?
 自分ではちっとも、わからない。
 
 ああ・・・だけど・・・。
私は、安心して、私を安心させるもの、を困らせたかったのかもしれない。あんしんして、だだをこねたかったのかもしれない。
せっかくすてきなものがあっても、“これじゃあいやだあ”と自由にいいたかったもかもしれない。おもいっきり、わがままをいってもいいんだって、実感したかったもかもしれない。わがままをやさしく受け止めて欲しかったもかもしれない。それほど、配慮され、愛されている、と、実感したかったのかもしれない。どこまでも、どこまでも、許され、配慮されている。どこまでも、どこまでも、愛されている。

その配慮は、ゆるぎ、ない。

硬直、ではなく、ありようを認めた上での、ゆるぎ、なさ。

罪悪感にとらわれるのではなく、悲しみにくれるのでもなく。
怒ることもなく、諦めることも、なく。
辱めたり、おとしめたり、無視したりすることも、なく。
意にそわせようと、画策、するのでも、なく。

ただ、わがままを・・・。あたたかく、うけとめる。

ばたばたする手足を・・・。やわらかく、うけとめる。
ただ、ありのままの自分、として・・・。
できることを、する。あるままで、ある。
(それが人間にとって、どれだけ、難しいこと、か。
愛情からくる、よく配慮された形、おこないを拒否されることが、どれだけ、悲しいこと、か。
“自分の何かがいけないのでは”と罪悪感にとらわれたり、否定されたように感じるのが・・・きっと、(きっと)人間にとって、自然な・・・こと・・・。逆切れするのが・・・自然な、こと・・・)


よく配慮されたものを、“これじゃあいやだあ”と拒否する自由。
究極の自由、だね。 赤ん坊にしか、許されて、ない。(^^ゞ。

究極の自由が欲しいのだ、と、私の中で訴える、赤ん坊。泣き叫ぶ、赤ん坊。あまりの力強さに圧倒される。

“うつくしいものなんていやだあ〜。いろんなものなんていやだあ〜。あんしんできないぃ〜。 みたくないぃ〜。ひきこもってやるぅ〜”。
泣き叫ぶ赤ん坊。

“ゆっくりなんていやだあ〜。はやくおおきくなってやるぅ〜。はやくてにいれてやるぅ〜。わたしはなんでもできるんだあ〜”。
根拠なく、泣き叫ぶ赤ん坊。

矛盾だらけ。
わがまま、だらけ・・・。

ただ、あるのは・・・。圧倒的な、エネルギー。


わたしは、そのわがまま?を・・・
あたたかくやわらかく受け止めることができるのだろうか?

“気に入らないんだね、泣きだいだけ、泣いていいよ?” と、
いってあげられるのだろうか?

“そうして、ね、こわい、まま、なにも見ないまま、かっ飛ばすことはできないんだよ。 それで、道路を走っては、危ないよ。怪我をしたり、いのちを落したり、事故になる。あなたをそんなふうに失いたくないよ? 大好きなあなたをそんなふうに失うのは、あまりに悲しいよ。こころ痛む、よ”。
愛情と配慮をもって、やさしく(赤ん坊が怖がらないように)、説明する。この世の道理を。金切声、でなく、パニックでも、ヒステリーでも、なく。わがままをやわらかく受け止めながら・・・大人としていうべきことをいうことはできるだろうか?


“こわくて、ひきこもったまま、一足飛びに、大人になったり、何かを手に入れたり、は、できない、んだよ?”

勇気ある、一歩。 一歩、踏み出す。歩き始める。

心細い。

また、泣きじゃくる。

“心細いんだね。そばにいるよ。大丈夫。ほら、ちゃんと歩いているね”。

“心細くなんかない!! わかったようなこと、いわないで!!”

あーあ。あくまで、あまのじゃく、だ(^^ゞ。
(困った姫ぎみ。こんなわがままさんが、私の中に、いようとは(^^ゞ)。


いつもいつも我慢させ、いつもいつもおとなしくさせてきた、赤ん坊。
いつもいつも、だましだまし、つきあってきた、赤ん坊。
もう、だませない、んだ。
一発殴って!?だまらせたり、いないことにしたり、もう、できない、んだ・・・。

あるいは、そういう赤ん坊がいることを無視して、大人になろうとしたり、何かになろうとしたり、手に入れようとしても・・・たとえ手にはいっても・・・ただ、空虚なだけ、なんだ・・・。

私の中の赤ん坊と・・・向き合うとき、なんだ・・・。そういう時期が・・・来た・・・。


金切声で、パニックになるような、心細さ・・・。

ひとしきり泣いた後、
“本当は、心細かったの”。“わかるように説明してくれる人が欲しかったの”。
まだ、ひくひく、泣いている。
“わがままで、パニックで、心細がりで、たよりたがり、八つ当たりの私のそばにいて、いろいろ教えてくれる人、欲しかった。だって、子供って、そういうものでしょ? やさしく辛抱強く教えてくれる人、ほしかった。私を子供でいさせてくれる人、そばにいて欲しかった。 私の気持ちをわかってくれ、子供でいていいよ? 大丈夫だよ? といってくれる人、欲しかった・・・”。
言葉にならない、赤ん坊の、言葉・・・。

・・・だけど・・・そんな人はいなかった。そんなに辛抱強い人、は。
そんなにやさしい人、は。生き方を教えてくれるような人、は・・・いなかった・・・。

みんなそんなには、余裕が、ない。
誰も、人の代わりに生きることは、できない。

“あのね、あなたに何でも教えてくれる人は、いないの。あなたの生き方を全部、教えてくれる人は、ね。あなたの人生を丸抱えしてくれる人は、いないよの”。“だけど、ね、あなたはその時々で、素晴しい先生に、出会うよ? 「せんせい」でない人からも、たくさん学べる、よ? 出会ったら、ちゃんとわかるように。ゆっくり、注意深く歩きましょう。美しいものもたくさん見えるよ? まわりを見て、楽しみましょう。うつくしさはあなたを心和ませてくれる。そうして、あらゆるものに・・・美しさを見い出せる。みるのもはあなたをおびやかさない。大丈夫”。
“そういうあなたは、そばにいてくれるの?”
“それはもう、安心して。まかせておいて(^_^)。ずっとずっとそばに、いる。だって私は、あなただから”。
“私の気紛れにも、ちゃんと、つきあってくれる、の?”
“大丈夫”。
“わがままにも?”
“うん。あなたは私の大切なお姫様、だから”。

ああ・・・そういって欲しかった。父に。母に。
“あなたは、大切なお姫様”。
言葉でいって欲しかった。ううん。いってくれたんだけど。
安心できなかった。
もちろん、父も母も精一杯育ててくれたのだけど。精一杯お姫様として大切にしてくれたんだけど。
私はどこかで、安心できなかったの。
“これでいい”って思えなかった。
それは、私が気を使う、神経質な質(たち)、だから。
父は自分の悲しみと弱さをおおう尊大さに。母はやっぱり悲しみと不安をおおう怒りに。気をとられていたから。
誰のせいでも、ない。
誰のせいでも、ないんだけど、ね。
なんか、哀しい。哀しいね。

欲しくて欲しくて、ずっとずっと手にはいらないと・・・
うらみに変わることがある。

こわくてふるえて、目を閉じて暴走する。

父や母を恨んでいた。
私を安心させ、説明してくれないこと、に。
私がわかるように、この世のことわりを説いてくれないこと、に。
私がやさしさを感じられるように守ってくれなかったことに。
恨んでいたんだ・・・。

こわくてふるえること。目を閉じて暴走すること。
その中間にこそ、真実が、ある。

“よく気がついたね”。
“その「中間の真実」は、ゆっくりとはっきりするもの。醸し出されるもの。
時とともに展開してゆく、もの。より精密に。より緻密に。あらわれ出る、充実した、もの”。
“いっしょに楽しみましょう”。

“そんな、簡単にはいかないよぉ”。
また?まだ?赤ん坊は、駄々をこねる。

“そうね、そう簡単にはいかない、ね”。
私はゆとり?の表情で、赤ん坊の手を、つなぐ。そっとそっと抱きしめる。
駄々こねさえも、いとおしいと。

いつか、いつも思えたら・・・誰にでも、そう思えたら・・・。

私も天使になれるの、かな。

それがいつかは、わからないけど・・・。
そうなる必要も、ないのかもしれないけれど。

今は、今できること、したらいいこと、を。することにしよう。

ストレッチと、目の体操。

なーんて、フィジカル。なーんて、お手軽!

駄々こねは私を脅かさない。

手をつないで、遠くを見よう。

未来の美しさを、眺めよう。



書いているうちにどんどん変化した?
何が? テーマが?
わからないけど。
ま、いっか(^^ゞ。

きっと、“生まれ得ぬものの恨み”と“目の体操”は対になっているんだね。
私の未来を単純に信じる部分となあんか重たい暗ーい部分。
それぞれがちょっとずつ絡まって・・・。

どちらもが、私。育(はぐく)もう。


メールお待ちしています   angel@makoran.jp

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