わたしの鼓動

Nov/2004 

救えない

    “私には、あなたは救えないの”
    “あっちにいって!”
泣きながら、私が叫んでいる。

    “もう、帰って!!”
    “私には、あなたは救えない”
母のチャイルドは、きょとん、として困っている。
行くところがなくて、今にも泣き出しそう。

    “ここにいては、ダメ”
    “もう、帰るべきところに、お帰りなさい”
とたんに、こずるい目になって、憎しみ?をあらわにする。
私を、憎々しげに見張っている。

子供の私は、母のチャイルドと、大人の私の様子を見て、ただ、泣きに泣いている。

私は、母を救いたかった・・・。

だけど・・・結局私には、救えない。
私は、ただの人間。
小さな私は、ただの子供、だ。

  “あなたは、すばらしい人なんだから”
  “すばらしい子供なんだから”
  “私を救って”
母との取り引き。
不幸な母、との取り引き。

私は、すばらしい人で、いたい。
私は、すばらしい子供で、いたい。
そんなふうに、ほめられたい。
そんなふうにしか、ほめられない。

子供の私は、母の満たされなさに気づいている。
母の不幸に気づいている。
母が、切れて怒鳴りちらすのは、母が満たされていないからだ、と、気づいている。

同情心。母を愛する気持ち。愛で満たしてあげたい、という気持ち。
幸せにしてあげたい、という気持ち。
私には、その力がある、と信じたい、気持ち。
不幸な母への気持ちを・・・
ほめられたい子供の弱みを・・・母はまんまと利用する。

まんまと母につかまり、まんまと母のチャイルドを引き受ける。

子供の私が、子供の母を引き受ける。
憎しみの目をした子供・・・。

    “できないよ”
    “あなたの思うとおりには、生きられない!”
大人の私が叫んでいる。
やらずぶったくりの母に怒っている。

あの人が私をほめるのは、私を利用できたとき。
私が、私を生きたとき、じゃない。
私が私の魂がよろこぶ生き方をしたときじゃない。

あの人が私を慰めるのは、母より不幸だ、と確認できたとき。
不幸な私で、母である甘美さを味わいたいとき。

私のつぶれた心を、きっとある新しい希望で膨らませ、あたためるためじゃない。
自由に生きる私を応援するためじゃない。
あたたかく人と関わるのを、助けるためじゃない。

    “私にはあなたは救えない”
    “もうあっちにいって!”
なんていう罠。
    “私はすばらしい人なんかじゃない”
    “あっちにいって”

そうか・・・私は、“すばらしい人”でいたかったんだな・・・。
ばかみたい・・・。

私は、すばらしい人、なんかじゃない。
“すばらしい人”というレッテルは、私を私から遠ざける。私を人から遠ざける。
母のチャイルドを引き受けていては・・・私は私を生きられない・・・。

母も母を生きられない。
母は(こずるく!)強い、人。
私が引き受ける必要も、ない。

・・・だいたい、ここに書いたこと全部・・・私の主観の世界。
もしかしたら、妄想の世界。
私の未熟さをさらけ出して、いる・・・。

そんな私に、母のチャイルドを押し付け、られた。
嵐のように、強い感情や怒鳴り声、というかたちで・・・。
避けようも、なかった、小さな私には・・・。
・・・押し付け、られた・・・。

母のチャイルドを引き受ける/引き受け続ける、義理も、義務も、何にも、ない。
こうして、生きて大きくなったこと自体が・・・生きていること自体が・・・母への恩返し・・・。
もう十分、母にはするべきことは、した・・・。

私は、私が関わりたい人と関わりたいように関わるんだから。
私がそうしたいように、楽しい関わりを築いて、いく・・・。
楽しいことを、重ねて、いく。

そういって、ひとしきり泣くと・・・何となく、胸があたたかい。何となく世界が美しい。

・・・さらに冒険を続けよう・・・。





自我を育む、は、続く・・・。


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