わたしの鼓動

Oct/2004 

極私的地震体験 その1

新潟の地震。亡くなられた方のご冥福をお祈りするとともに、被災された方に心からお見舞い申し上げます。

そうして・・・極私的地震体験。

いえ、体験、しなかったの。
ちょうど、自転車での移動中だったので。
横浜や、東京でも、相当揺れた、らしい。
でも、私には、わからなかった。

“何度も揺れたよ?”と、東京の友人は、いう。
横浜の知り合いも、“わからなかったの?”と、いう。

わからなかった。

新潟に故郷のある友人と、ちょっと、仲違い?していた。

お見舞いの電話もしづらい感じ。

それはね、全体として、“これは、私の問題なの。まこらんには、関係ない”。
そういわれているような感じ・・・。
(いえ、友人がそう思っているかどうかは、わかりません)
(これは、本当に、個人的で、極狭い心持ち!?での印象です)

そうして・・・なぜか・・・手放しで心配したり、心痛めたり、というのではなく、“仲たがいしている○○(友人知人家族親戚)の故郷なので複雑な心境”という人が、本当になぜだか、私のまわりには多い・・・。
(だからといって、心配していないわけでは、ありません)
(被災されたみなさんは本当にお気の毒だし、早くもとの生活に戻ることができますよう、お祈りしています)
(私でできることならば、何かさせていただきたい、という気持ちも、もちろん、あります)
それは、まるっきり、私の都合で、私の何かが、そういう心境の人たちを引き寄せているのだ、と思う・・・。

そういう時こそ、仲違いなんか水に流して協力し合う、という選択もできれば、わだかまりがそのままわだかまりとして、かえってはっきりする、こともある・・・。

        “なんかばからしいな、そんなの”。

私のどこか、がいっている。

        “人の一生なんてあっけないものなのに”
        “何ちっぽけなことにこだわっているの?”
      “ちっぽけなことにこだわるのが人間なんだよ”
      “こだわることを尊重してよ!”

私の中の私が、喧嘩してる。

  “喧嘩はやめて”

さらにもう一人の私が泣いている。

  “喧嘩なんかだいっ嫌いなのに”。
  “喧嘩なんかしたくない”
  “もうしたくない喧嘩をするのは嫌だ!”
  “なのに喧嘩しちゃうの。されられてるの”。
  “絶対に嫌! 絶対にへん!”
  “喧嘩なんかしたくな〜い!!!”

“そのためには、知恵を使わなくちゃね”

泣いている私にそっと寄り添う私も、いる。

私の中のたくさんの私・・・。

混沌に混乱。
喧嘩、涙。
なぐさめ。

・・・ずっと奥底に・・・流れている、知恵?
ずっと奥底で・・・“これはなんだろう?”
“理解したい、観察したい、見極めたい”と
冷静に、熱望している、好奇心・・・?・・・目・・・?・・・。

その混沌の世界にとどまると・・・
何かが、わかる。何かが、現れる・・・。

ゆっくりと、自分に関して、理解が始まる・・・。

喧嘩したくないのに喧嘩した、一番最初は、弟と、だったこと。
小さい頃の私は、それは、適切に、大人が知恵を働かせなかったからだ、と思っていること。
二人ともが大切で、二人ともの言い分に理がある、とつたえる大人がいなかったから。
二人ともがかけがいなく大切だ、と伝える大人がいなかったから。
(幼児の気持ちがぶつかり合って、パニックしている二人に割って入って、落ち着かせて、自らの知恵を使う・・・それはそれで、要求の高いことでもある、とは思うけど・・・でも、小さな私は、それをこそ、要求している)

喧嘩している私たちをほくそ笑んでいる、母。

“あなたたちなんで、所詮、この程度”。
どこかで思っている、母。

そういう母を(そういう母とは知らずに?知っていて?)大好きだ、と思っていたけれど・・・。
どこか、歪んでいる。

ううん。
しっていたの。そういう母だって。
そういう母だって知っていて、小さい頃の私は、救いたかった。
教えたかった。
“喧嘩するのはあなたのせい、あなたが母として人間として未熟だから”と、いいたかった。
(ううん、救いたいのは、今の私?)
(ううん、やっぱり、子供の私)

人は、その人から生まれてしまえば、DNAを分ち持てば、“その人が好き”という気持ちをどうしても抱いてしまう。
“その人=母(や父)が好き”という気持ちがついてまわる。
どうしたって、ぬぐえ、ない。
(分ち持ったDNAからくる“好き”を捨て去ろうとすると、凄まじい抑圧、葛藤が生じる。憎しみや恨みが生まれる)。

その、いわば、本能にふりまわされず、ただ、ありのまま、を見る。
好き、があったまま。振り回されないぐらいずっと遠くから。
ありのままを、みる。
私の内側から見える、現実。

(そう、これは私の内側からみた、「私」の現実)
(現代社会は「客観性」を尊ぶけど・・・)
(「私」という視点をすっ飛ばした客観性なんて、あり得、ない)
(私が「私」に深く根ざしているからこそ、「私でないもの」の視点がはっきりする)
(“だから敢えて書くのです”。・・・私のどこかが・・・「私の視点」に根ざした「私の物語」を紡げ=私を生きろ、といっている)

・・・・・・・・・・・・・
母は喧嘩をあおる、人。

私を“乱暴な子”という人。
私を“だらしない”という人。

もちろん、そういう面もあったかもしれないけれど・・・

ううん。逆、なの。

母が“乱暴だ”というから、“乱暴”がどんなものか、やってみる。
“だらしない”というから、“だらしない”がどんなものか、やってみる。

なんという、貪欲、な、好奇心。
なんと、節操の、ない・・・
(そうして、その好奇心は・・・どうしても、とめられ、ない・・・)
(たぶん、私の、本性?本質?の、一部・・・)

そう、“乱暴”や“だらしない”。
・・・をやってみる。
そしたら・・・それは、それで・・・楽、なんだよね。
その時の私の視点は広がった。
(でも、私の本質とは、結局、違う)

いつもいい子でいたかったけど、それはできない。“だらしない”は、楽。

男の子の異質性に、ビビりまくっていたけど、“乱暴”な私は、男の子の背中をドン、と叩いたり、できる。(少なくとも何らかのかたちでは、関われる)

でもね、それは、結局、私の欲しいものでは、なかった。

私は、乱暴な子でも、だらしない人でも、ない。

ただ、好奇心に駆られて、いわれたから・・・やってみた、だけ・・・。

私がそういう子でない、と知っていて、わざと、いう母。
私の子供らしいかわいらしさ?何か?に嫉妬していた、母。

「私」、の真ん中に、決して触れようとしない、母。
「私」のいのちの真ん中を無視し続ける、母。
そういうありようしかわからない、母。
そういうありよう以外のものをまるで学ぼうとしない母。

弟は、母を“ママ”とも、“かあさん”ともいわない。名前で、呼ぶ。
(どういうつもりかは、わからないけれど・・・)

誰も、あの人をそのまま“母”とは、思いづらい・・・。

もしかしたら、ずっと昔=前世では、母は、私の弟子だったかもしれない。
不肖の、弟子。
“そんな偉そうなことをいうなら、私が育ててやる”。母の魂が、いう。
そうして、私=自らお腹を痛めた子、を壊しまくる。
自分の身を削ってまで、私がなっちゃいないこと、を証明する。
(それほど、母の地獄=傷=傷つき、は深い・・・?・・・)

“(偉そうなこといっていた)あなただって、たいしたことないじゃない”
“小さなことで、すぐ喧嘩する。乱暴な子。だらしない子。くだらない人間なのよ、あなたは”
“たいしたことないの”

ううん。私は喧嘩したく、ない。だらしなくも、ない。くだらなくも、ない。
たいしたこと、あるか、ないかは・・・私のこれからの生き方?視方?にかかっている。
それは、私が決めること。あなたが決めることじゃ、ない。

一度は、あなたの言葉を受け入れてみたけど、それは、私の本当じゃ、ない。

いくら好き!?な人の言葉でも、受け入れたくないものは、受け入れなくて、いい。

・・・やっと、わかる。
こんな簡単なことが・・・今まではわからなかった・・・。

「好き」、と「受け入れがたい」が葛藤なく!?共存するとやっと、わかる。

そうすると、しぜんと(執着にも似た)「好き」は、薄れてゆく。
私でないものを「受け入れまい」とするがんばりも、薄れてゆく。

あの、「好き」は、認めて欲しい、好いて欲しいだったのかもしれないなあ。
執着にも似た、じゃなく、執着からくる、好き・・・だったのかなあ・・・。

ううん、本当に・・・執着、だったんだ・・・。

母には、私を認める余裕は、ない。そういう心の広さは、(少なくとも今までは)なかった・・・。
無い物ねだりでいくら要求しても・・・何もやってこなくて、当然だったんだ・・・。

そう、今までの私の「好き」は、いのちの中心といて心地よい、という好きじゃ、ない。

(そうか、好きってそういうことかもしれない、ね。
その人の、何事かの、いのちの中心といて、ここちよい=好き)

(母の中心といようとすると、混乱する。気持ち悪い。
また、利用されるのでは、と自動的に防御する)
(自分を生んでくれた人といて気持ち悪い・・・とは・・・ ・・・本当に認めがたかった、認められなかった・・・)
(でも、ずっとたぶん・・・そう思っていたんだよね・・・)
(否定しても、否定しても、そこにある、どうしようもなく、ある、感情・・・)
(だから小さい頃、しょっちゅう吐いてたのかも・・・)

もう、どうでも、いい。
ばからしい。

「私の中心」(いのち)と一緒にいない人に執着するのは、ばからしい。

私は、私を生んでくれた人が、気持ち悪い・・・。
地獄を垂れ流す、そのありようが、気持ち、悪い・・・。
(たとえ、生んでくれ、育ててくれたことへ感謝の気持ちがあるとしても・・・)
(気持ち悪さは・・・ぬぐえない・・・その苦しさ・・・)

じゃあ、「私の中心」と一緒にいるって?
「他の人のいのち」と一緒にいるって?
(肝が据わるって?)

それは、また、別の問い。

大切な、問い。

私がゆっくりと、育みたい、もの。




人は(心の)中心に触れてもらわないと、中身が育たない。
空虚感。
ぬぐえない。

それが結局、(私の)生きづらさなのかも、知れません・・・。



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