誕生の時

父と母とのこと。
私は悲しい。悲しみをずっとずっと。抱えてきた。説明する言葉がない、悲しみ。もどかしさ。わかってもらえない、もどかしさ。

父の勤務する病院で、私は生まれる。父は小児科医。(なぜ小児科を選んだんだろう?) 父が私の担当医。

私が生まれたときには。父は有頂天。もう手放しで喜んでいる。だって、だって、助けられなかった2人の子供(父の妹と私の姉)の死を、父の痛みを、父の傷を払拭させてくれる、“自分の”子供。もしかしたら、やっと一人前の小児科?医になった気分?の・・・満面の笑顔の父。

まだ目もよく開かないような私は。痩せっぽちの虫みたいな、変な色をした私は(生まれたてはみんなそう)、母の胸にすがっている。早くおっぱいが欲しい。 お腹がすいた。生まれるのは大変。食べるのを楽しみに、お腹に何か入る感触を楽しみに、やっと、あの大変さのなかを生まれてきたんだから。やっと乳房を探 し当て。口にあたる感触を頼りに。思いっきり乳を吸う。こんなちっぽけな虫=赤ん坊=私なのに。ぐーぐーと。意外な力強さで。思いっきり乳を吸う。

とたんに悲しみが口いっぱいに広がる。なみだの味。しょっぱい味。悲しみの、味。

乳の甘さを、母の優しさの象徴を楽しみにしてきたのに。何という困惑。父母、という環境すべてが。とたんに全身にしみわたってしまう。受肉。人間だ。こう いう環境に。感情的な。社会的な。物理的な環境に。生まれてきたんだ、と。一瞬にして重力の重さ?をすべてを。悟る。その環境に無力なまま。投げ出され る。

母は心配。有頂天な父を見て。父の愛を私が全部さらってしまうのでは、と。せっかく母を愛している、母が安心できる、将来を、生活を、託していける、有能 な父の愛を。私がすべて奪ってしまうのでは、と。あの不安さのなかに、母が実家のなかで味わってきた、不安さのなかに逆戻りしてしまうのでは、と。心細く なる。

そういう時、母は。こんなふうに。不安を怒りにかえる。

“なにさ、パパなんて”。“こんなに元気な赤ん坊にばかり気をとられて喜んで”。“こんな子のことより、あの死んでしまった子。お葬式もせず、墓石もな く、戸籍すらない、あの子。充分に悲しむ暇もなかったあの子。充分に抱きしめられなかったあの子。母親として、親として、何の愛情もあげることのできな かったあの子に。こんなふうにおっぱいを吸って欲しかった。あの子こそがたった一人でいってしまったで可愛そうな子供なのに”。

母はわたしのいってしまったお姉さんに自分を投影する。自分の孤独をお姉さんの孤独とすりかえる。そうやって父を責める。母には味方がいない、を、強烈に主張する。

そんなふうに思って欲しくなかったのに。

誕生の時を。母にも喜んで欲しかったのに。

なくなっちゃったお姉さんではなく。私を見て欲しかったのに。特に、その瞬間には。

“生まれてきてくれて、うれしいわ”と。“会いたかったのよ”と。

はじめて会うその瞬間にこそ。愛情をそそいで欲しかったのに。
私に注目して欲しかったのに。

かたくなに、悲しみにとどまる母。

そんな妻には気付かず・・・。
やっぱり有頂天の父。

ほんのちょっと、母の様子に気がつけばいいのに。

母が孤独のうちに沈んでいくのを。

気付いて、優しく抱きとめてあげればいいのに。

言葉がない。

説明できない。

赤ん坊の私。だって、声は、泣き声?鳴き声?にしかならない。

手や足だって、自由がきかない。ばたばたと。コントロールが効かずに、ただ、動いているだけ、だ。

これでは、何も、伝わらない。

もどかしさ。くやしさ。

一瞬に事情が体にはいってくるのに。
何もできない。見ているしかない。巻き込まれるに任せるしかない。重たい事情。重たすぎる、事情。どうにもできない。私には。赤ん坊には。

一切が、無力さの中。

私はどなりたい。父に。怒りを爆発させたい。
仁王立ちになって、真っ赤になって、どなりたい。

“ママに気がついて。ママに優しくして。ママは不安に思っているのよ?
パパしか、頼る人がいないのに。ママに優しい言葉をかけてあげて。
大変だったね。とか。よくやったね。とか。
君がいるからこそ、の、幸せだよ、とか。
愛しているよと。優しく、しみじみと。いってあげて。
ママを支えて、あげて”。

母には、一緒に泣きながら、“お姉さんは天国にいるんだから。天国で幸せに暮らしているから。神様と一緒にいるんだから。心配ないのよ。大丈夫なの。ママにはパパも私もいるんだから。私が生まれてきたことを。喜んで!!”と。伝えたい。

だけど・・・。

そうはできなかった。

私は、“弱い”方の、ママの味方にならなくちゃ、と。

パパの愛は、切り捨てなくちゃ、と。

せっかく喜んでくれている父の有頂天の愛情を。
切り捨てる。

なんてひどいことしたんだろう?

ごめんなさい。

許して。

許されない、ね。

生まれてきてから、父がなくなるまで。

私は何度も何度も。父の愛を切り捨てる。

ごめんなさい。
ごめんなさい。

父の有頂天さを。切り捨てる。

パパの注射が嫌い、といい。
髭が嫌い、といい。
薬がにがいから、
難しい本を読ませようとするから、
難しい問題を解かせようとするから、
田舎のなまりがあるから、
すぐ、怒るから(怒った顔しか見せないから)
私をたたくから、
かっこ悪いから、
ださいから、
私の気持ちをわかってくれないから、
嫌い、といい。

切り捨てる。

父のがっかりした様子。

本当にごめんなさい。

父はどんなに私をかわいがったか。
私を可愛いと思ってくれていたか。

わかろうともしなかった。

心を通い合わせなかった。

せっかくアメリカ留学時代の恩師が日本に来ても、会うのを断わった。
中学の時、偶然駅で父にあっても、にこりともしなかった。

大学に入ったときもあんなに喜んでくれたのに。
結婚するときに夫が挨拶に来たときに。無口な父が思いもかけず饒舌になって。
すごく喜んでくれたのに。

わたしには、わからなかった。

父の気持ち。

私に向かう、優しい気持ち。
私を大切に思う気持ち。

わからなかった。
気付かなかった。
切り捨てていた。

本当に。

ごめんなさい。

父のとっては私こそが。宝ものだったのに。お姫様だったのに。

母が、弟が。嫉妬するくらい、私は父に愛されていたのに。

ごめんなさい。

父に愛されていることを誇りに思えなかった。

ごめんなさい。

私もパパが大好きだったのに。

“パパ大好きよ”って。
いっぱいいえば、よかった。

“パパ大好き”って。
もっといえば、よかった。

“すき”を。伝えればよかった・・・。

後悔先にたたず・・・。

父は。天国から、見てくれているかしら。

私に、“もう、わかったから。そんなに泣かなくていいから”と。
いってくれるかしら。

“いつでも自慢の娘だったよ”と。

“小さく生まれた君が。
食が細くて心配だった君が。
お遊戯している君が。
かけっこする君が。
本が好きで勉強がよくできる君が。
中学受験をした君が。
工学部に入った君が。
論文を書いている君が。
一人で就職先を見つけてきた君が。
学者と結婚した君が。
えらいと思っていた。大好きだった”。

“人間はやろうと思ったことは何でもできる”と。
教えてくれたのは、父だった。

それは、私を励ます言葉であると同時に。
私を縛る、言葉でも、あった・・・。
私を苦しめている/苦しめてきた、言葉・・・。だった・・・。

“君は人生の方向転換をしたのだけど。それでよかった。それがよかった。
もしかしたら俺も。きっと、君に無理をさせてきた。
しらなかった。ごめん。わるかった。
すごく期待に応えてくれていたんだね。
君に自由に生きて欲しいと、ずっと願っていたんだけど。
君は自由に生きていると。ずっと思っていたんだけれど。
しらなかった。無理をさせてしまって。わるかった、ごめん”。
と。父は謝ってくれるかしら?

母の様子に気がつかなかったように、私の様子にも。
どんどん自分からはなれていく、荒々しくなっていく、私の様子にも。
・・・気がつかなかった父・・・。

・・・・・・・・・・・・
父が今の私といて・・・何をいうかは、
どんな様子かは・・・わからない。

もう、亡くなってしまって。

わからない。

大好きな父への。
大好きだった父への。

レクイエム。

受け取ってくれるかな。

・・・・・・・・・・・・
“最期の一年で”。“たくさん受け取ったから”。
“それでいい。それで充分”。

・・・・・・・・・・・・
“パパ、ありがとう、大好きよ”といって。
私は、私を、生きる。

生きるしかない。

もう愛を、切り捨てない。

そんな悲しいことは、もう、しない。

・・・・・・・・・・・・
ずっと、母の味方はしたんだけれど。

味方になり切れなかった。

それは、真実からずれた、次善の策なのだから。

しかたが、ない。

母は満たされなさを、ただ八つ当たりしただけなのだから。

そんなふうな、“可愛い女性”としての母を。

家族として。見守る。

父のかわりはできないのだけど。

間に合わなかった父の分までも。

せめて母とは、心を通わせたい。

“お姉さんは天国にいるのだから、安心して”と。
あの時にはいえなかったのだけど。

今は思ったことを、感じたことを。伝えること、できる。

私は大人になったんだ。 

表現できる。私として。
母とも関わる。

マザコン&ファザコン娘=私。

私は私を生きるので。
パパ、ママ、どうぞ見守っていて。
くださいね。

私は私を生きる。生き続ける。大好きな、あなたたちの娘として。

パパ、ママ、ありがとう、ね。