写真の中の見知らぬ娘(=母)

50年代半ば。父はアメリカに留学する。母をともなって。“洋行”。飛行機ではなく、船で。山下公園にある、氷川丸、が現役で活躍していた頃。新婚2年目ぐらいのこと。母は25歳。父は32歳。

 それより少し前。十代の母。18歳の母。髪をカールさせ、横の髪だけ、後ろで止めている。ちょっと、ビビアン・リーみたいな、髪形。目の大きな美人。でも、少し緊張?緊迫?した感じ。何かを?思い詰めている感じ。細い足。ハイソックスにリーボック?のペタンコ靴。

 氷川丸の前で、笑っている母。もちろん父もうれしそうだけど。母は本当に華やかに笑っている。私の知っている母じゃない。やせていて、眼鏡もかけていな い。(私が生まれてから、母は体型がかわった。太った。眼鏡をかけるようになった。私が知っているのは、“教育ママ”な印象の女性。“変身”してしまっ た。きっと“変身”する必要があったのだろう・・・。) でも写真の中では、少女の面影を残す母。たくさんの見送りの人。外貨のない時代の洋行。親戚中の お祭りのよう。

 たぶん船内。ベンチ?ソファ?に腰掛けている父と母。母だけこちら(カメラ)を見ている。父はとなりにすわってくつろいで、前を見ている。穏やかそうな カップル。秀才の父。美人の母。まるで、映画の“ワンシーン”。モノクロームだからこそ、母の華やかさがいっそう引き立つ。
 
 “ママ、美人じゃない。スカウトされなかったの?”、“あら、ありがと。当時は、そういうのはなかったのよ”。

 私は、母似じゃない。美人ではない。父に似ただんご鼻。小さな目。爪も。母はマニュキアの似合う長い爪。細い指。私は、短い、四角い爪。父に似た、四角い手。

 アメリカでの若きカップル。大きなコーヒーカップ?カフェオレボールの載った小さなテーブルにつく二人。窓のそば。きっと家の中。ケーキがある。何かのお祝い?・・・二人だけのお祝い。 ・・・。
 アメリカでのクリスマス。父の上司?母のアルバイト先?のお家で、一緒に祝う。大きなクリスマスツリー。金髪の男の子たち。(母はベビーシッターのアルバイトをしていたのだ)

 現地でのお友達。日本女性。皆、意志のはっきりした顔だち。“みんなどうしているのかしらねぇ”。そうか。今となっては連絡のとれない人々、との出会い。大きな決意で、アメリカにわたった女性たち。

 ソファにすわる、父と母。大きなケーキを前にしている。クリームとアラザン(小さな砂糖粒を銀色にコーティングしたもの)のデコレーション。質素で、 ゴージャスで、上品なデコレーション。寄りそう二人。母の肩を抱いている父。“ああ、こんなふうに、二人は女と男、妻と夫だったんだ・・・”。母の膝の上 に手をおく父。とてもうれしそう。たぶん、母はマタニティドレス。“うわー、ケーキ。これどうしたの?”。“これは、○○さんが用意してくれた・・・”。 詳しくは、話さない母。たぶん、はじめての妊娠。とても喜ぶ父。誇らしげな父。母は、まだ少女のよう。小さく笑う。もちろんうれしいのだろうけれど、まだ ピンと?来ていないのか・・・。父の手の中にかわいらしく、女性として、おさまっているような、そんな感じの母。ベビーシャワーのパーティ。たぶん、たく さんのプレゼント。これから生まれてくる子供への。そして、母への。プレゼント。・・・母にとっては、もしかしたら、サプライズパーティ?だったのかもし れない。

 母はその自分用のアルバムを、幼い頃からアメリカ行きのまでのアルバムを、包装紙に包み、紐で縛り、封印していた。どうして封印していたの?どんな思いを閉じ込めていたの?・・・。また、聞けない質問だ。

 その時の子供は、私ではない。私のお姉さんに当たる人。戸籍にも載っていない人。生まれて一週間で、なくなった人。父の病院で生まれ、たぶん父が担当医。二人のはじめての子供。

 そういう人がいたってわかったのは、父の葬儀のとき。
 
 ううん。しっていたけど。偶然、叔母と母と話しているとき。“ママ、私、お姉さんいたの?”。“いたのよ”と、叔母。したらなかったの?教えていなかったの? 叔母は、母の顔を見る。母は、話すのはいやそうだった。

 その人が存在している、その人を母がまだ、とても大切に思っている、母の心の柔らかい部分に生きているって知ったのは、父の葬儀のとき。“桜の季節に生 まれてなくなったから、“桜”の字の入った戒名にしてください”。お坊さんに頼む。そう、40年以上、その人は戒名もなかったのだ。父の埋葬に併せて、そ の人のお骨も埋葬される。戒名も父と同時につけていただく。・・・。そんなに母に思われていたのに。位牌も、お墓もなかった人。母は静かに心の中で喪に服 していた。そっと。静かに、静かに・・・?。(怒りとともに?)ため込まれた悲しみ。切れて怒りまくる母のもう一つの面。私には知りえなかった謎。今も知 りえない、謎。

 父の勤務先で、父が担当医でなくなったとすると・・・。母は、その悲しみを十分に表現できなかっただろう。だって、それでは、父を責めることになる。な くしてしまった少女、Y叔母(父の妹。10代でなくなった人)と重なる。またも、助けられない子供。父の失敗=悲しみの元。だからこそ、きっと、母は口に することすらできない。(そんな抑圧?は、無意識になされるものだ) 何でもなさ、を、よそおい? おりとなって溜まる、悲しみ。

 今回の人生を楽しむぞー。と、生まれてきたわたし。この人達なら、きっと、大切に育ててくれる、と、両親を選んで生まれてきたわたし。生まれてくるな り、母の顔より早く、“おっぱい、おっぱい”と、乳房に吸い付くわたし。生命力いっぱいの元気な子。だけど、母の母乳を飲んだとたん、悲しみが伝わってく る。涙の味。しょっぱい、おっぱい。“あの子にも、こんなふうにおっぱいを飲ませてあげたかった”。生まれてきたわたしとではなく、お姉さんと一緒にいる 母。母の胸の中にある悲しみは、無防備な私の中に取り込まれる。わたしの一部となる。気難しく、あまりはっきり笑わない赤ん坊。訳もわからず、悲しみに包 まれていく自分。なきむし、ぴーこさん、な、わたし。 (やっと、明るさを取り戻すのは、3歳を過ぎてから。いっぱいの笑顔でポーズをとるようになる・・・)

 40年?近い母とのつきあい?(長いつきあいだ、親子だもの)で、はじめて?見せてくれた、二人の結婚写真。関西の都会からお嫁に来た父の母=祖母=商家の娘。関東の都会で結婚する父。関東の都会の商家の娘=母を、お嫁にもらう学者?の卵?の父。

 父の母も、母の母も、とてもたくましい感じ。太っているし、存在感がある。母の父も健在だ。丸い眼鏡。丸くはげ上がってどちらかといえば痩せている人。区議会議員だったという祖父。

 アメリカ留学中に、母の父がなくなる。知らせすらない。知らせても、帰ってこれないから。そうして、母は、その父からの遺産をもらえなかった・・・。 (そんなふうに、母にとってアメリカ行き=喜びと、悔しさ、悲しさ、がいり混ざった体験)

 アメリカから帰ってきて、数年後、私が生まれる。

 お宮参り。うれしそうな父。

 3歳の七五三。黒の地に白いサテンの飾りのついたワンピース。白い大きな襟のコート。すごくセンスがいい。母のセンス。母の幸せ、を生きる/生きていた3歳の私。

 ・・・。ううん。人の幸せ、なんか、生きられない。それは(私にとっては)、しかれたレールの上を歩くこと。それは、出来ない。苦しくなる。でも、 じゃ、どうしたらいい? そう。模索の連続。それは、それで、また、別の意味で苦しい。ううん。それで苦しいのは、一時。少しずつだけど、何かが、開けて くる。少しずつ、呼吸が楽になる。ほんの少しずつ。そうして、地道に紡いでいく。人生という織物を。次の糸は、どうなるかわからない、そんな時もある。う うん。そんな“時”の連続。それが、楽しい。やっと、楽しくなってきた。・・・。

 私はもう、痛みを怒りには変えない。傷つきやすい私、を生きる。なき虫ぴーこさん、である自分を引き受ける。

 “傷=痛み”は、期待と依存の大きさによるという。そう、期待し、依存しているとしても。今は、それでいい。

 “一緒に行きましょう”という母。弟の新築の家に。買い物に。その言葉にゆさぶられる。“悪かったわ”と行き違いを謝る母。“何だか、お母さんというよ り、お友達のようだね”と、セラピストの友人のコメント。母と私の新しい関係? それは、私にとって、前進なの?それとも新しい罠? でも、なにかがゆる む。ゆっくりと。そして・・・。私の傷を私の傷として、受け入れてくれている気がした。謝る母は。それはとってもうれしい。うん。うれしいことだ。私の 傷=痛みが、母を傷つけるといって、切れていた、母。自分の痛みを抱え切れず、私へ怒りをぶつけていた母。悲しみを垂れ流した?母。傷ついた私をさらに傷 つけた母。私に情緒の面倒を見て欲しい母。でも、もう。母の感情は母のもの。いくら垂れ流されても。私が受け取る必要はない。どうにかしてあげる必要もな い。私の傷=痛みは、私のもの。母を傷つけない。母が謝る。それは、母が私を手放すこと。自分とは違う人として、尊重すること。その象徴に感じられる、言 葉。“悪かったわ”は。もう私は、私の痛みを隠さないくてもいいのかもしれない。母を過剰に気づかう必要はないのかもしれない。母の情緒は母が面倒を見 る。私の情緒は私が面倒を見る。私は、私の痛みを手に入れる。“あなたの言葉は私を傷つける”。そう伝える自由が私にはある。静かに伝える、ちゃんと説明 もできる。私は大人になったんだ。

写真の中の少女。新婚の女性は、いつまでも、いつまでも、こちらを見ている。
時代を越えて。思いだけは生き続ける。
“これからどうなるのかしら”と。不安と期待を胸に、船で旅立つ母。旅立ち続ける少女。
きっと今も。“これからどうなるのかしら”と。もう、父の運転する自動車(=人生)には、乗っていられない、母。それでも、立ち止まれない。進まなくては。それが生きるということ。

・・・そうか。私は、見守る立場になったんだ。そうしようと思えば。見守ることすらできるんだ・・・。
そうして新しく紡がれる。
母との物語・・・。