ケロヨンのお芝居(話を相手によく聞いてもらった体験)

  私がはじめて話を聞いてもらえて気持ちがゆるんだ体験は幼稚園のころのことだったと思う。気持ちを知ってもらい受け止めてもらうことが”安心”や”愛”につながりがあるんだなあと感じられるような体験だった。
  いたずら盛りの子供は本当にやかましいものらしい。母は何回か子供をほおって出かけることで、そのイライラに対処していた。ほんの数回だったと思う。 が、幼稚園児にとっては、母に見捨てられた気分で昼間数時間たった一人で留守番することは、天地がひっくり返るような出来事だった。
  当時の幼稚園児にとって、”お出かけ”は文字どおり期待と興奮に満ちたものだった。必ず楽しいことが待っていた。大きなプール、大きな冷房のついた劇 場(冷房は贅沢品だった)、大きなデパートでの買い物、、、。たくさんのおもちゃに囲まれるだけで(買ってもらわなくても)幸せだった。”お出かけ”当日 は朝から興奮しまくり、はしゃぎまくり、その興奮は弟にも伝染し、時には収集のつかないさわぎになったみたいだ。ベッドから飛び降りたり、家中かけまわっ たり、テレビアニメの主題歌を大声でどなるように歌ったり、、、。そんなときの母のおどし文句は”しずかにしなさい!置いていきますよ!”
  ある日実際においていかれた。母だけ出かけていったのだ。悲しかった。もうその日はテレビアニメを見ても全然つまらなかった。弟も同じだったのだろ う。たぶん急に無口になり、けんかにすらならなかった。じーっと黙ってすごしたような気がする。母に見捨てられて、身動きがとれない石にでもなったよう だった。お芝居を見にいくはずだったのだ。その時までに何度か芝居を見にいっており、心をくすぐる楽しい舞台だと知っていた。テレビで見ているケロヨンた ち(ああ歳がばれますね^^;;)が目の前で歌ったり、踊ったり運がよければ握手までできる!!はなやかで暖かく安心できるストーリー。
  その夜楽しかったであろうお芝居を思って泣いた。ううん、楽しかっただろうなあと思ったとたん涙が出て、こういう状態を”悲しい”というと知ったの は、もっと後のことかもしれない。お布団のなかでしくしく泣いた。隣で寝ていた父は気づかず、母が気がついた。スタンドの灯りをつけ、どうしたの?もしか したらお芝居いけなかったから泣いているの?ばかねえ、、、”といいながら、やさしく頭をなでてくれた。うれしかった。気持ちが通じたうれしさだった。そ んなことはまれにしかないことだった。母に怒られてばかりいた私には。このことは、”気持ちが通じると安心する”ことや、もしかしたら人を信じること、人 とのつながりを信じることの私の原点なのかもしれない。”安心”と”愛”が通じるんだなあと感じた原点なのかもしれない。